しかし、開発場を取り上げられた利左衛門は、開発場に移住する準備を進めていたようである。鈴木家の過去帳には、利左衛門が貫井村の名主役を鈴木重右衛門へ渡して、新田場の名主を勤めたと記されている。また利左衛門は、開発場を取り上げられた二か月後の八月、検地帳(けんちちょう)や年貢割付状(ねんぐわりつけじょう)などを貫井村の「新名主兵左衛門」ら六名に渡している(史料集一八、一四二頁)。この受取証文の宛先は「鈴木新田御名主半内殿」で、半内(利左衛門)は鈴木新田の名主とされている。半内はこの頃に開発場へ移住したのだろう。善左衛門と元右衛門に役米上納が命じられた開発場であったが、内実は利左衛門が「鈴木新田」として、引き続き開発を主導していたのではないだろうか。開発場を取り上げられてからわずか二か月後のことである。利左衛門は開発場へ移住して、あらためて地位の回復を目指していたのかもしれない。
利左衛門の立場を示すものに、享保一五年(一七三〇)五月、南野中新田(現国分寺市)角左衛門ら三名から、利左衛門へ提出された詫状がある。詫状には、南野中新田の「江戸道通り」は鈴木新田も通っているため、かつて利左衛門が道筋を決めていたとある(史料集一六、一九八頁)。しかしこの道筋は、南野中新田の百姓には少々勝手が悪かったため、利左衛門に無断で道筋を決め直してしまったという。これは心得違いであったとして、前年の享保一四年春から当年五月までの間に道筋を直し、利左衛門と角左衛門らの取持人甚五左衛門も加わって、道筋はよくなった、ということであった。鈴木新田を通る道筋を決めるにあたり、利左衛門の許可をえる必要があったことがわかる。
さらに翌六月、利左衛門は「鈴木新田名主」として、代官岩手藤左衛門役所へ願書を提出した(史料集一三、三三二頁)。前年と前々年の年貢高がとくに高免(こうめん)であったこと、そして七一町五反歩の土地のうち、四九町五反歩の分は家作料・農具料の請求はしないが、両年の年貢の引き下げはしてほしい、そして残りの二二町歩は家作料をもらいたい、どちらも願いが聞き入れられれば、未進年貢は上納できる、という内容である。これは武蔵野新田の広範囲の村々から出された、幕府への年貢減免要求の一つであった(本節2)。年貢の引き下げという、村にとっての最も重要な事項について、利左衛門が鈴木新田名主として願い出ているのであり、実質的に「名主利左衛門の鈴木新田」が存在していたことを示している。