名主源右衛門の「野中新田」

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享保一一年(一七二六)は、「鈴木新田」を含め、周辺の地域にとって画期になる年といってよい。利左衛門が開発場を取り上げられ、野中新田の村名と村役人が決まった一方で、開発場にはつぎつぎと百姓が入村してきたのである。入村状況の詳細については後述するが、利左衛門から開発場を割り渡されて村にきた百姓たちは、野中新田の名主源右衛門へ役米を納めることになった。入村百姓は当初、源右衛門を名主とする「野中新田」の百姓として把握されていたのである。
 たとえば、享保一〇年一〇月に利左衛門から土地を割り渡された儀右衛門は、享保一二年一二月、役米代永六三六文五分を野中新田名主源右衛門へ支払っている。同様の役米代永六三六文五分の受取証は、享保一一年の平助あてのものも存在する。入村百姓は野中新田の名主源右衛門へ役米を納め、源右衛門から役米受取証を受け取っていた。「野中新田名主源右衛門」から差し出されたこれらの受取証の宛先は、「同所儀右衛門殿」などとある(深谷家文書、図1-30)。「同所」、すなわち野中新田の百姓ということである。儀右衛門はじめ入村百姓たちは、開発場を割り渡されたときの名主と、役米を納める名主、そして村名が変わっていたことに驚いたかもしれない。あるいは、当時は領主の検地を受ける前でもあり、村域や役米上納のあり方については、ある程度流動的なものと考えられていたかもしれない。

図1-30 野中新田名主からの年貢受取証
享保12年12月「覚」(深谷家文書)