享保一一年以降の入村

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享保一一年(一七二六)までは、開発場に移住する百姓が少なかったため、幕府は享保一二年一〇月に、新田百姓への家作料・農具料の下付に関する触を出した。家作料は一軒につき金二両二分、農具料は開墾一反につき銭六二四文とされた。この奨励金政策により、享保一二年以降は開発場への入村百姓が急増するといわれる。
 鈴木新田の入村百姓についての記録が村に残されている。百姓の入村年と出身地などを記した、宝暦一一年(一七六一)九月作成の「出百姓国郡村名覚帳」である(深谷家文書)。入村百姓は、「出百姓」とも記される。この帳簿は代官伊奈半左衛門の命令により、武蔵野新田で一斉に作成されたものの一つである(本節5)。帳簿によれば、鈴木新田が「野中新田」とされていた享保一一年以降、開発場にはつぎつぎと百姓が入村していることがわかる(表1-14)。享保一一年に一〇軒、一二年にも一〇軒、一三年には一六軒と、順調に百姓が入村し、その後も入村者は増えていった。一斉検地が行われた元文元年(一七三六)以前の入村百姓は、合計五五軒であった。その後、元文四年に作成された、前述の「南北武蔵野出百姓草分書出帳」によれば、鈴木新田には一二三軒もの入村百姓が居住していたことが記されている。しかし、「潰」などの記載もあり、入村する百姓に対して、村から出ていく百姓もいたことがわかる(史料集一二、八三頁)。
表1-14 鈴木新田の入村者
入村年多摩郡入間郡足立郡比企郡横見郡埼玉郡大里郡その他
享保11年(1726)18110
享保12年(1727)1910
享保13年(1728)42181(不明)16
享保14年(1729)11
享保15年(1730)1326
享保16年(1731)112
享保17年(1732)0
享保18年(1733)11
享保19年(1734)11
享保20年(1735)314
元文元年(1736)121(不明)4
元文2年~宝暦10年(1737~1760)51013125(不明)27
11196102342782
*数値は入村者数(世帯数)。
*宝暦11年9月「出百姓国郡村名覚帳」(深谷家文書)より作成。