入村百姓の出身地

142 ~ 144 / 868ページ
入村百姓たちはどこからやってきたのだろうか。再び「出百姓国郡村名覚帳」によって詳しくみていこう。
 入村百姓の出身地は、鈴木新田の北方地域が中心である(図1-31)。武蔵国横見郡からは二三軒、入間郡からは一九軒、比企郡からは一〇軒の入村があった。これらは現在の埼玉県の村々である。とくに横見郡や比企郡など、比較的遠方からの百姓が多く、最も遠いのは大里郡小八林村(こやつばやしむら)(現埼玉県熊谷市)や足立郡吹上町(現埼玉県鴻巣市)である。最も多い出身村は享保一二年(一七二七)以降に入村があった、横見郡上砂村(かみずなむら)(現埼玉県吉見町)で、計一八軒を数えることができる。上砂村からは享保一二年に八軒、翌年には四軒が入村しており、出身村として集中していることが特筆される。なぜこれほどまでに同じ村からの百姓が多いのか、その理由は不明である。同じ村からの集団移住などがあったのだろうか。また武蔵野の開発場において、入村百姓を集めているという情報が広く伝わっていたのかなど、新田開発にあたって入村百姓をどのように集めていったのかも具体的には不明である。しかし、小川村の九郎兵衛が吉見郡で活動していること(序章第二節3)、野中善左衛門がもとは上総国(現千葉県)出身であることなど(本節4)、当時の百姓のなかには、かなり広域な活動範囲を持っていた者もいたのであろう。利左衛門自身、のちに新田世話役川崎平右衛門の手代として活躍することなどからも、広域な人のつながりを持つ人物であったのかもしれない。
 
鈴木新田の入村者
図1-31 鈴木新田の入村者
*埼玉県・東京都の現在の地図に、近世の村の位置を示した。
*数値は入村者数(世帯数)。
*宝暦11年9月「出百姓国郡村名覚帳」(深谷家文書)より作成。
*不明の村は除いた。

 なお、入村百姓のうち、遠方の村を出身村とする百姓たちは、開発初期に入村した百姓で、彼らののちに入村した百姓とは別格であるという意識を持ち、鈴木新田では「年寄」として位置づけられていた(後述(5))。
 一方、利左衛門の出身村であり、また開発の「本村」でもある貫井村から入村した百姓は一軒のみである。利左衛門自身の入村については帳簿に記されていないため、貫井村出身の百姓は利左衛門をふくめて二軒のみということになる。貫井村のほとんどの百姓は、開発場の割り渡しを受けた「切添(きりそえ)」分、すなわち貫井村と地続きの地を拡大するのみで、開発場に居住しようとする者はいなかったのであろう。また隣村の田無村からの入村百姓も二軒のみであった。鈴木新田に開発場を求めてくる百姓は、比較的遠方からきた百姓であったことは特徴的である。