享保一七年(一七三二)一〇月、六〇〇町歩余に及ぶ広大な開発場を有していた野中新田は四つに組分けされた。与右衛門・利左衛門・善左衛門・六左衛門の四名が名主役を仰せ付けられ、年貢の取り立てから上納までを、四つの組(村)ごとに行うように命じられた。組(村)ごとに、村運営が行われることになったのである。このうち利左衛門分は「鈴木新田」となった。前年の享保一六年の暮れ、「鈴木新田」の百姓は、「野中新田」の年貢を一人の名主で取り立てるのは困難であるとして、代官所へ願い出ていた。代官上坂安左衛門役所での吟味のうえ、開発願人であった利左衛門へも名主役をと願ったところ、願い通りに名主が決まり、村分けも果たされたのであった。もともとの開発人である利左衛門は、名主役を仰せ付けられ、開発場において公的な立場を認められたことになる。鈴木利左衛門家にとっては、かねてからの念願を果たし、ついに自らの新田村を成立させたことになる。
ところで、四つの組分けのとき、「野中新田」の初代名主となっていた源右衛門改め与右衛門が、組分け帳面と未進金の仕分けを行っていた。また「野中新田」の一部であったことが、鈴木新田の百姓と、野中新田名主与右衛門らとの争いの種になってしまう。享保一八年二月、「野中新田」は四つに分けられたにもかかわらず、与右衛門にのみ年貢の割り付けが行われた。これに対しては野中新田善左衛門組の百姓たちが、割付を別紙で仕立ててもらうよう、代官上坂役所へ願い出ている(本節4)。村が分けられたにもかかわらず、代官所は従来の方法で年貢を割り付けてしまっていたのである。