「野中新田」村役人を訴える

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その後、鈴木新田の百姓にとって、より重大な問題が発覚した。享保二〇年(一七三五)九月、鈴木新田の百姓は、幕府からくだされた家作料ほか諸勘定のあり方をめぐって、野中新田与右衛門、組頭長右衛門・同善左衛門を代官上坂役所に訴えた。鈴木新田が「野中新田」の一部であった頃に、与右衛門らによって数々の横領、不正が行われたというものであった。横領金の概略はつぎの通りであった(史料集一六、一九九頁)。
 ①幕府から下された一軒につき金一分ずつの家作料金の四三軒分、合計金一〇両三分
 ②一軒につき銭一〇〇文ずつの稲荷建立金、銭四貫七〇〇文
 ③享保一三年の夫食拝借金の残り、銭三貫四〇〇文
 ④享保一三年の開発(農具)料の残り、銭二貫六〇〇文余
 ⑤村の通用橋入用の残り、銭一貫八〇〇文余
 ⑥百姓四名(金兵衛・源左衛門・新兵衛・又右衛門)の家作料金の残り、合計金五両一分
 ⑦塚普請賃銀、永一〇文
 ⑧百姓勘兵衛の過納年貢、永五〇〇文
 ⑨百姓二名(仁兵衛・堀端仁兵衛)の過納夫食拝借、永三八五文七分、銭六〇〇文
 ⑩村道にかかわる金(家作料金の一部)、一分

 以上、合計二一両余が与右衛門によって横領されたという。訴状にはそれぞれの横領のようすも事細かに記されており、たとえば、幕府からくだされた開発料金の半分近くを年貢として引き取ったうえ、残りを百姓へ渡さない、あるいは年貢などはすべて納めたにもかかわらず、帳簿へは未進金が書き上げられていた、などの内容となっている。
 与右衛門はさまざまな方法で金銭を着服していたようであった。百姓のなかでも開発初期の三年間に入村した百姓と、その後に入村した百姓では開発に対して若干意識が違っていたようで、このことも与右衛門が金銭を思うままにしやすい状況だったようである。初期の入村百姓は、自分たちより後に入村した百姓らを「軽き者」としており、後々の覚悟もないままに「御百姓」、すなわち新田百姓になりたいと考える者たちとみていた。これが、享保一一年から一三年頃に入村した、遠方の村からきた百姓の見方だったのだろう。たとえば、上砂村から鈴木新田までは、およそ五〇キロメートルもの距離がある。彼らは相当な覚悟をもって新田へ入村したのであろう。ところが、その後に入村した百姓たちは、このような覚悟がないとみられていた。ほとんど人がいない状態の開発場に入村した百姓たちからみれば、すでにある程度の人びとが居住していた新田への入村は、「軽い」気持ちであると思われていたのだろう。これらの「軽き」百姓に対して、与右衛門は甲乙を付けて、家作料・開発料を渡していたのであり、これが、享保一七年の組分けによって露呈したのである。しかし、このことを与右衛門に尋ねても、内々にさまざまな分け方をしていた、それは自分と組頭で割り渡したものである、と答えるのみであった。
 鈴木新田の百姓の主張によれば、以前、「野中新田」が代官野村時右衛門の預り支配であった頃、名主与右衛門は時右衛門との関係で「新田取立名主」となっていたため、口出しすることはできなかったという。江戸町人出身の与右衛門には、代官と何らかのつながりがあったのかもしれない。少なくとも百姓たちは、与右衛門に疑いがあっても口出しできないと考えていたのである。
 その後、支配代官が上坂安左衛門となり、百姓らの願い通りに組分けがされた。しかしそれにもかかわらず、与右衛門が享保一六年および一七年の村入用金を割りかけてきたことで、ついに鈴木新田の百姓は、与右衛門が管理していた帳簿の開示を要求した。しかし与右衛門は帳簿を見せなかった。鈴木新田の百姓は、与右衛門が年貢ほか村入用を思うままに差引勘定していたこと、さらには享保一一年から一七年までの八年間、組頭の長右衛門と善左衛門をふくむ三人の馴れ合いで、思うままに「野中新田」六〇〇町余を差配してきたことによる不正を訴えたのである。
 訴状が出された翌一〇月、役所での吟味が行われ、与右衛門には言い訳する余地はないとして、立ち会い勘定をして吟味するようにと小川村の弥市、鈴木新田の利左衛門に指示があった。一〇月一七日、弥市方で双方が立ち会い、帳面を勘定する旨を与右衛門へ伝えたところ、与右衛門は帳面には不備があるから勘定ができないと言い、一向に吟味を受けようとしなかった。しかし、「家作料割渡帳面」を持ってきたので、これを吟味したところ、帳面には文言を後から書き入れたところがあり、しかも名前の箇所の印にも怪しいところがあったという。翌日、与右衛門だけを密かに呼んだが、与右衛門は、どうにか内済(ないさい)(示談)にして欲しいというので、扱人を加えて検討したという。また与右衛門には、開発場に所持していた土地や家財を別の百姓へ渡し、雑穀なども在所へ送ったという噂があった。そこで与右衛門と組頭を弥市方へ呼んだところ、組頭が言うには、田地は年貢未進で別の百姓が受け取りたいということを役所へ届けている、与右衛門はふるさとに居住しているため、忰の元右衛門を呼び、何でも相談するという扱いで済ませたいということであった。その後のことを組頭へ尋ねたところ、与右衛門の忰元右衛門へ二度も飛脚を出したが、未だに元右衛門は現れず、また、取り扱いを受けることはできないというので、出入になったのである。
 この訴えの結果を示す直接の史料は残されていないが、与右衛門はすでに土地や家財を百姓へ渡したと噂されており、その後もすがたを現さなかったようである。この頃、実質的に開発場からはすがたを消していたのであろう。実際、翌元文元年(一七三六)九月中には、野中新田与右衛門組の名主として、市右衛門が取り立てられている(本節4)。
 開発初期の新田の村々では、開発人の裁量によって年貢そのほかの勘定が行われており、年貢を割り付けられる百姓も新田に居住して間もないことから、開発人の思うままに勘定を割り掛けられる側面が多分にあったのだろう。鈴木新田の場合、「野中新田」から「独立」し、名主役もそもそもの開発願人であった利左衛門に「戻った」ことで、これらの問題が追及できることになったのだろう。