鈴木新田の地目と面積

148 ~ 149 / 868ページ
享保二一年(元文元年・一七三六)、代官上坂らによって武蔵野新田での検地が一斉に行われた。鈴木新田にも元文検地帳の写が現存するので、以下、検地帳の記載によって当時のようすをみてみよう。検地によって鈴木新田の面積は二五六町三反七畝二四歩となり、これにともなう村高は七四七石四斗五升二合と定められた。鈴木新田の土地の地目はつぎの通りであった。中畑以下、畑は二五三町九反四畝一二歩であったのに対し、田は下田のみで二町四反三畝一二歩、割合にすれば一割にも満たない。すなわちほかの武蔵野新田と同様、ほとんどが畑作地である。但し、面積では二町余を有しているから、武蔵野新田のなかに限っていえば、比較的、田場を有するといえる。また、地目の品等も「中畑」「中ノ下畑」など、後述するほかの村よりも高い地目があることも特徴としてあげられる。田場は開発当初からの地名にみられる「長久保」付近の低湿地であろう。そのほかの地目では、下々畑が最も多く、野畑・林畑なども合わせると畑地が九七%余を占めている。
 
鈴木新田の地目構成