鈴木新田の土地所持状況

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さらに名請人の土地所持状況をみてみよう、元文検地帳の名請人は一〇〇名、このうち屋敷持は九二名を数えることができる。すなわち、近隣村に居住したまま百姓が土地を所持するような「持添地」は少ないといえる。利左衛門が土地を割り渡した百姓に対して、開発場に居住することを求めていた通り、鈴木新田に居住する目的を持った百姓が、ある程度順調に入村し、定着していたことを示している。名請人を土地所持反別の高い順に集計したものが表1-16である。
表1-16 鈴木新田の階層構成
面積人数うち屋敷持
12町~11
11町~00
10町~00
9町~00
8町~00
7町~00
6町~42
5町~33
4町~1212
3町~88
2町~2525
1町~3431
1町未満1310
合計10092
元文元年12月「武蔵国多摩郡鈴木新田検地帳」(深谷家文書)より作成。

 検地帳によれば、最も所持地が多いのは開発人の利左衛門で、一二町二畝一七歩である。これはほかの百姓とくらべて格段に多い。これに、六町余の百姓が四名、五町余の百姓が三名と続いている。六町余のなかには鈴木新田の二か寺、宝寿院(ほうじゅいん)と海岸寺(かいがんじ)がふくまれている。さらに二町余の百姓が二五名、一町余が三四名で合計五九名であり、名請人の約六〇%がこの層である。野中新田・大沼田新田においても、ほぼこの層が名請人の中心であり(本節4・5)、開発場の入村百姓が所持する土地は、一~二町歩が中心であったことを示している。また、前述したように享保一〇年(一七二五)一〇月に開発場四町七反歩を割り渡された儀右衛門は、検地帳には二町余が記載されている。検地によって、利左衛門からの割り渡しよりも土地面積は少なく計上されている。
 なお、検地の案内を勤めたのは利左衛門をふくめて一二名であった。彼らは村で「年寄」などとされる有力者層で、また開発初期に入村した者と一致する。彼らの屋敷地の位置からみると、それぞれが所持地付近の案内を行っていたとみられる。
 検地の二年後の元文三年(一七三八)一月には、名主利左衛門によって、検地帳に記載された各百姓の所持地を書き上げた「名寄帳(なよせちょう)」が作成され、各百姓にも渡されたようである(深谷家文書)。土地が売買される時にはこの名寄帳も買取主へ渡され、所有権の移動が確認されたのであろう。