元文元年(一七三六)に検地が実施され、鈴木新田の面積と村高が確定すると、公的には、近世を通じてこれらの数値は変わらなかった。ここで成立後の鈴木新田を概観するため、嘉永三年(一八五〇)八月の村明細帳によって鈴木新田のすがたをみてみよう。
鈴木新田は江戸日本橋から七里(約二八キロメートル)の距離にあり、東西二〇町余、南北一四町余の広さである。最寄りの市場は入間郡所沢村(現埼玉県所沢市)の市場で三里(約一二キロメートル)ほどの距離であった。地勢は平地で、土壌は軽土、すなわち火山灰質でさらさらしたものである。明治三年(一八七〇)の書き上げにも、土壌は黒土、赤土が混ざった軽土で大変な薄土であると記されている。作物栽培に向いているとは決していえない土地柄であった。但し、下鈴木の南側は若干低地になっているため、水田がひらかれていたことが『新編武蔵国風土記稿』にも記されている。このあたりの地域は「悪水堀」として絵図にも描かれる地域である(第二章第六節4)。
作物については、米は通常よりも遅く成熟する晩稲(おくて)、かさもち、粳米(うるちまい)が作付けされ、畑では、大麦・小麦・粟・稗・大豆・小豆・芋・菜・大根・胡麻・荏・辛子なども栽培されていた。百姓たちは農作物を作付け、収穫するだけではなく、男たちは江戸で駄賃稼ぎを行い、馬を飼育していない者は縄・沓(くつ)・草鞋などを作り、女たちは木綿糸を紡いで木綿を織るなどして収入にしていた。
その一方で、農業の合間に商売を行っていた百姓もいた。商売家は一〇軒で、その種類は居酒そば物・菓子青物・酒瀬戸物荒物・紙類水油などであった。さらに屋根葺(やねふき)や大工などの職人もいた。また安永三年(一七七四)の村明細帳には、元文三年の代官上坂の頃に市を立てることを許可されたと記されている。月に三度、二日・一二日・二二日と定めていたが、土地柄が悪く、あまり賑わっていなかったようである。
近世を通じて家数は一一〇軒前後であった。名主は一名、組頭は六名が置かれていた。高札場(こうさつば)は名主利左衛門宅の前にあったという。名主利左衛門の屋敷は、下鈴木で街道沿いに並んでいた屋敷地のほぼ中央に位置していた。
なお村内の二つの寺院のうち宝寿院は、享保一一年(一七二六)に現在の地に引寺され、海岸寺は元文元年に現在の地に引寺された(本節7)。