念願の新田開発を果たし、その後、名主役に就任した鈴木利左衛門は、川崎平右衛門定孝の手代に取り立てられている。川崎平右衛門が新田場世話役になった元文四年(一七三九)八月から延享四年(一七四七)までの八年間に手代として御用を勤めた(本章第三節)。前述した元文四年「南北武蔵野出百姓草分書出帳」が、鈴木家文書として残っていることもこれに深く関係するのであろう。
利左衛門が手代を勤めるようになったのは、下小金井村名主、関勘左衛門との縁戚関係によるものであった(第二章第八節)。勘左衛門自身が川崎平右衛門とは義理の兄弟関係にあったため、そのつながりによって、利左衛門が手代として御用を勤めることになったとされる。また、鈴木新田は遠方の村々からの入村百姓獲得に成功していることから、鈴木家がもともと武蔵野新田地域、さらにはより広範囲の百姓間のつながりを持っていたことも考えられる。