貫井村の百姓は、開発許可を受ける以前から、開発を行うことが可能な場所として、「大長久保」「小長久保」の地名をあげていた。元文検地によって二町余の下田が定められたが、その後の、「大長久保」の田場のようすを示す願書が作成されている。
百姓儀右衛門は、寛保三年(一七四三)三月、一二月、そして翌寛保四年(延享元年・一七四四)正月に、大長久保の田場について、名主利左衛門と川崎平右衛門の手代矢嶋惣助あての願書を作成した。内容はつぎの通りであった。「大長久保田場の溜井(ためい)は、元文五年(一七四〇)の見分(けんぶん)によって場所がよいと認められ、普請が許可された。自分はもとの在所から、貧しい百姓として新田場へ出て、少しでも田場ができるかもしれないと考えて開発を行ってきた。溜井の普請もできたので、自分には一畝歩たりとも田場がないため、少しでもよいので田場を替地としていただきたい」(深谷家文書)。儀右衛門が記したように、畑地では生産力の向上はむずかしかったのであろう。溜井(用水をためる井戸)の普請が行われたことを契機に、田場を持つことを求めたのである。
水そして水田をえることが容易ではない武蔵野の地にあって、湿地であった「大長久保」の地は、貫井村百姓が考えていたと同様、鈴木新田の百姓からも田場の開発地として着目されていたようである。