近世の野中新田

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野中新田の村域は、おおよそ現在の天神町、花小金井、花小金井南町、上水南町にあたる。また、大沼町や御幸町の一部などにも該当する地域がある。一つの村でありながら玉川上水の北側と南側に分かれて位置している鈴木新田と同様、野中新田も玉川上水の北と南に分かれている。とくに玉川上水の北側の地域は、飛び地のように細かく分散していることも特徴である。また最大の特徴は、野中新田という一つの村が、与右衛門組(よえもんぐみ)・善左衛門組(ぜんざえもんぐみ)(以上、現小平市)・六左衛門組(ろくざえもんぐみ)(現国分寺市)の三つの組に分かれていること、そして三つの組それぞれが近世の支配制度、村請制(むらうけせい)の単位であり、名主や組頭などの村役人もそれぞれの組に置かれていたことである。「組」という単位でありながら、「村」と同様の機能を果たしていた。
 三つの組のうち、与右衛門組と善左衛門組は北野中新田、六左衛門組は南野中新田とも呼ばれる。さらに、与右衛門組-北野中、善左衛門組-通野中(とおりのなか)、六左衛門組-南野中という通称もあった。近世を通じて、与右衛門組の村高は四六六石余、面積一五〇町余であり、善左衛門組の村高は三六九石余、面積は一三〇町余である。なお、六左衛門組の面積は九四町余であり、野中新田全体の面積は三七四町余であったから、野中新田は享保期に成立した武蔵野新田のうち、最も面積の広い新田村であった。

図1-32 野中新田の村域