野中新田の開発のきっかけとなったのは、武蔵国多摩郡上谷保村(現国立市)に居住していた黄檗宗円成院(おうばくしゅうえんじょういん)の僧大堅(たいけん)と、その兄弟ともいわれる矢沢藤八の新田開発計画である。まずは大堅の出自について、伝わるところを少し触れておこう。大堅は延宝四年(一六七六)、上谷保村の関東鋳物師頭(いもじがしら)矢沢宗永の子として生まれた。貞享三年(一六八六)、一〇歳で剃髪(ていはつ)し、京都宇治の黄檗宗満福寺(まんぷくじ)にて学んだ。のち、元禄一五年(一七〇二)九月一日、相模国大住郡大山(おおすみぐんおおやま)(現神奈川県伊勢原市)の石蔵山浄葉資福禅寺にて、師実山道伝より嗣法(しほう)(法統を受け継ぐこと)した。二年後の宝永元年(一七〇四)、実山から浄葉寺末寺の藤井山円成寺の住職に命じられた大堅は、上谷保村に小さな庵を建て、武蔵国海福寺を本寺とする藤井山円成院をひらき、その開基を実山とした。黄檗宗は承応年間(一六五二~五五)に、中国から隠元隆琦(いんげんりゅうき)によってもたらされたもので、禅宗のなかでも明朝風(みんちょうふう)の様式が色濃い宗派であった。当時の日本では新興の宗派であったため、寺請制度(てらうけせいど)が確立しつつあった近世社会では、新しい檀家を獲得することは困難であったといわれる。そのなかで大堅は、同じ黄檗宗の僧で近隣の立川村(現立川市)に医王山万願寺(まんがんじ)を開山した鉄牛道機(てつぎゅうどうき)が、下総国椿山(現千葉県香取郡東庄町)での干拓事業に成功したことに強く影響を受けたともいわれる。新田開発によって新田村が成立し、百姓が入村することによって檀家を獲得する機会をうかがっていたのであろう。
図1-33 上谷保村にあった円成院の絵図
享保11年11月「(円成院ならびに稲荷社・観音堂絵図差上控)」
(国立市矢沢家文書)