大堅は、享保七年(一七二二)一〇月二日の夜に、千手観音(せんじゅかんのん)よりの御籤(おみくじ)と毘沙門天(びしゃもんてん)の夢のお告げを受けたとして、新田惣鎮守の願状を書いた。一〇月五日卯の刻、大堅四五歳の時であった。藤八と大堅の連名による、寺の本尊千手観音、鎮守天満天神(ちんじゅてんまんてんじん)と毘沙門天、そして日本全国大小の神祇に対する起請文(きしょうもん)である。その内容はつぎの通りであった。上谷保村から続く武蔵野の新田開発願いを、江戸の喜右衛門の協力をえて、近いうちに願書を提出する予定である。発起人は拙僧(大堅)と藤八の二名である。願い通りに開発が命じられたときは、開発場に「矢沢新田」という村名を付け、箭沢山長流寺を取り立てて、村の鎮守として毘沙門天を勧請することを仲間の五人と決めている。一日も早く願い通りに命じられたい。もしこの願状にそむいたときは、開発仲間はたちどころに神罰冥罰を受けるであろう(史料集一二、八六頁)。
すでにこの年の五月には、代官岩手藤左衛門によって新田開発の触書(ふれがき)が廻され、七月には江戸日本橋の高札に新田開発令が掲げられていた。このとき、起請文を書いた藤八と大堅は、新田開発を現実のものとすべく、江戸町人の喜右衛門らの協力を得ていたのである。