同日、江戸牛込榎町(現新宿区)米屋喜右衛門・同所玄端事源右衛門・同所佐野屋長右衛門・牛込関口大屋六左衛門の四名が、上谷保村の藤八・孫市・市右衛門あてに仲間証文を作成した(図1-34)。証文には、開発願書を作成したのは仲間一一人の相談によるものであり、開発が許可されたのちは仲間一一人で協議して諸事運営する、と記されている。この江戸の仲間のうち、喜右衛門と源右衛門は、代官岩手役所へ提出した願書に、上谷保村の願人として名を連ねていた二人である。仲間証文には、上谷保村から七名、江戸町人からは四名、合計一一名の相談で願書を作成し、代官岩手役所へ提出したこと、願人は上谷保村から三人、江戸町人からは二人の五人で、いずれも「上谷保村百姓」として署名捺印したことを確認している(史料集一二、八七頁)。願いが認められるためには上谷保村の百姓として願書を提出する方が、より有利であるという判断だったのであろうか。
図1-34 開発仲間証文
享保7年10月「仲間証文之事」(史料集12、p.87)
さて、藤八をふくめた開発仲間一一名は、同年一二月一日に円成院へ証文を提出した。その内容は以下の通りであった。本尊千手観音から開発願いが成就するという御籤、さらに毘沙門天のお告げを受けて開発願いを公儀へ提出した。願いが成就したならば、新田村に惣鎮守として毘沙門堂の地を最初に設定して宮を建立する。また一か寺を願い、寺地と仏供田(ぶっくでん)になる場所は我々で割り合って出す。新田百姓の菩提寺と祈願所を願うという内容を書いて本尊内陣へ納めるので、日夜ご祈祷を願いたい。願いが成就したらこの願文通り、社地と寺地共に希望の場所に設置してかまわない。我々はそれに従い、建立を手伝うこととする。円成院支配の辻堂庵室の取り立ては例外として、他宗についてはたとえ「寮」などであっても取り立てることはしない。我々は連判証文で決めたように、円成院を開基とし、子々孫々まで檀家であるから、離檀(りだん)することは決してないし、百姓たちにもこれを守らせる。新田でのすべてのことは、我々と円成院住僧が同座し相談して決めることにする。以上が、百姓仲間と円成院が、新田村の形成を目前にした約束であった(史料集一二、八八頁)。
この約束については、翌享保八年(一七二三)六月(三日)にあらためて確認を行っている。再度の約束を交わす必要が生じたのである。代官と江戸町奉行与力(よりき)の見分(けんぶん)が五月一四日にあり、一八日から二八日まで検地の定杭打ちが行われた。公儀へのうかがいが済みしだい、開発場の地割を一二分割して円成院と百姓仲間一一名とで分けること、割地のうち寺地・宮地はどこにでも設定してかまわない旨を約束したものであった。なお百姓仲間一一名のなかには「連衆河越村源右衛門」の名がある。川越鋳物師の出自とされる上谷保村の矢沢家または関家の関係であろうか(史料集一二、八八頁)。
一方、この六月中に、百姓仲間一一名は野中善左衛門へ願書を出した。その内容は、開発資金二五〇両の出金依頼であった。