大堅と上谷保村百姓仲間の希望であった新田開発は、享保八年(一七二三)五月の代官と江戸町奉行与力の見分の際、開発の冥加金(みょうがきん)すなわち権利金二五〇両を上納するように命じられていた。しかし、開発仲間のなかで二五〇両を出すことができるものはいなかった。そこで大堅と開発仲間一一名は、隣村鈴木新田の開発に出資していた上総国望陀郡万国村(かずさのくにもうだぐんまんごくむら)(万石村、現千葉県木更津市)の野中善左衛門に出資を依頼したのである(本節3)。出資をしてもらえるならば、新田の村名には善左衛門の名を付け、開発地も善左衛門が希望する場所を、願人たちが割り合って差し出すという条件を出した。善左衛門については、万石村の名主であったこと以外、百姓宿をしていたとも、米屋であったともいわれるがその詳細は不明である。
さて、この出資依頼と前後して、前述した円成院と開発仲間との約束の確認が同月に行われたのであった。円成院は、それまで一緒に開発を計画してきた仲間ではなく、大きな資金力を持つ善左衛門という新たな人物が新田開発に介入することによって、約束が不履行となることを懸念したのかもしれない。とくに、土地を一二分割すること、そして円成院の寺地と宮地の確保についてを懸念したのではないか。この懸念は、実際には土地の問題ではなく檀家確保の問題として、のちに噴出することになるのであった(本節7)。