開発場の売却と上谷保村百姓の撤退

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広大な開発場をえた上谷保村の百姓たちであったが、享保一〇年(一七二五)から一一年にかけて、彼らは開発場をつぎつぎに近隣の村々へ譲渡していった。売却先は砂川村(現立川市)・中藤村(現武蔵村山市)、そして大岱村(現東村山市)であった。上谷保村の百姓たちは、ほとんどの土地を売却してしまったのである。これによって、開発仲間の中心でもあった上谷保村の元右衛門・孫市・平左衛門の所持地は三町五反四畝六歩となった。上谷保村七名のうち三名が、開発を許可されてからわずか一~二年で土地を手放したのである。彼らは開発場を自ら育成していくのではなく、土地売買による利益をえる目的で、開発地の割り渡しを計画したとみられる。
 
上谷保村願場の内訳

 さらに大堅と共に開発を企図した藤八が、享保一〇年に役米代金(やくまいだいきん)を使い込み、年貢の上納ができないことを原因として、土地をすべて開発仲間の源右衛門に売却し、上谷保村に帰ってしまう。当初、開発の中心であった上谷保村の百姓たちが、ついに七名から三名となった。開発の町人仲間四名はすべて土地を持ち続けていたこととは対照的である。享保一一年五月一一日、今後は円成院と残りの開発仲間七名で諸事話し合い、取り決めることが約束された。藤八の土地を源右衛門が引き受けた経緯もあるのだろう。翌六月には源右衛門は名主として登場する。