入村百姓の出身地

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上谷保村の開発仲間による土地売却と同時期に、近隣または遠方からつぎつぎに百姓が入村してきた。善左衛門の移住も享保一〇年(一七二五)頃であったという。投資のようなかたちで土地を手放していく上谷保村の百姓がいる一方で、新田村を成立させるためには、積極的に入村者を募る必要があっただろう。善左衛門自身、自らが新田場に入村することによって、新田村を確実に成立させることを積極的に考えていたのではないか。鈴木新田や大沼田新田と同様に宝暦一一年(一七六一)に作成された、「武蔵野新田出百姓之訳ヶ書上帳(むさしのしんでんひゃくしょうのわけかきあげちょう)」により、のちに野中新田善左衛門組となった百姓の入村年と出身郡を示したものが表1-18である。元文元年の検地以前に入村していたのは三二名で、このうち享保一二年に入村した者が最も多い。郡別にみれば、多摩郡が八名、入間郡が七名、足立郡が七名となっている。このうち享保一一年には入間郡上留村(かみどめむら)(上富村、現埼玉県入間郡三芳町)から喜兵衛、多摩郡大沢入村(おおそうりむら)(現青梅市)から善兵衛、比企郡梅木村(現埼玉県川島町)から義兵衛・七郎兵衛らが入村した。彼らはのちに善左衛門組の組頭役を勤める家の百姓たちであろう。そして後述する元文検地実施後、近隣の多摩郡を中心としてさらに百姓が入村し、宝暦一一年時点で五四名の百姓が居住していたことがわかる。
表1-18 野中新田(善左衛門組)への入村者
入村年多摩郡入間郡足立郡比企郡その他
享保10年(1725)11
享保11年(1726)1124
享保12年(1727)325212
享保13年(1728)325
享保14年(1729)0
享保15年(1730)1225
享保16年(1731)0
享保17年(1732)213
享保18年(1733)0
享保19年(1734)0
享保20年(1735)22
元文元年(1736)0
元文2年~宝暦10年(1737~1760)154322
2311731054
*『小平町誌』(p.141)より作成。
*この史料は現存しない。