「野中新田」となる

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享保一一年(一七二六)六月一一日、武蔵野新田開発を企図していた一人である鈴木利左衛門が役米を一年目しか上納できず、開発場を取り上げられた。利左衛門が割り渡されていた開発場である「貫井村願場(ぬくいむらねがいば)」は、この願場の出資者であった善左衛門と元右衛門に与えられた(本節3)。これと前後して、同じ六月に上谷保村願場は、近在遠方から入村する百姓が多くなったことを理由に、村名と村役人が仰せ付けられた。初代の名主は源右衛門、組頭は善左衛門と長右衛門、長百姓は喜右衛門・市右衛門・六左衛門・喜六郎とされた。みな開発にかかわった者たちである。彼らによって円成院の引寺が願われ、享保一二年春、寺社奉行から引寺を許可された円成院は、上谷保村から移った(本節7)。
 享保一一年は、鈴木利左衛門の開発場取り上げという事件も重なり、この地域一帯が上谷保村の百姓仲間と善左衛門との約束が履行されるかたちで「野中新田」として把握されることになった。そしてほかの新田にさきがけて、村名と村役人が決定された。但し、同年一一月の史料によれば、「野中新田」は、「北野中新田」と「南野中新田」の、「南北両新田」という認識がされていたようである(史料集一二、九七頁)。

図1-35 藤井山円成院跡(国立市) (平成21年8月撮影)