(3) 四つの「村」へ-与右衛門組・善左衛門組・六左衛門組・鈴木新田-

163 ~ 164 / 868ページ
 広大な面積を有する「野中新田」は、年貢納入などに不便であることを理由として、享保一七年(一七三二)一〇月に組分けが行われ、与右衛門・善左衛門・六左衛門・利左衛門の四名が名主役を仰せ付けられた。ここにおいて、与右衛門組・善左衛門組・六左衛門組・鈴木新田が成立し、四つの組(村)ごとに、年貢の取り立てから上納までを行うように命じられたのである。この組分けの際、「野中新田」の初代名主となっていた源右衛門改め与右衛門が、組分け帳面と未進金の仕分けを行っていた。
 ところが組分け後の翌享保一八年二月になっても、年貢の割り付けが与右衛門組の名主与右衛門に一括で命じられたため、これを迷惑として、野中新田善左衛門組の新名主となった善左衛門ほか四二名の百姓が、代官上坂安左衛門(うえさかやすざえもん)役所へ願い出たのである。善左衛門組の百姓は、年貢割付は各組で「別紙」にして欲しいと主張した(史料集一二、九一頁)。それぞれの組は独自性を持ちつつあったことがわかる。さらに享保二〇年九月には、鈴木新田の入村百姓が年貢勘定をめぐって、野中新田与右衛門、組頭長右衛門・同善左衛門を代官上坂役所に訴えた(本節3)。各組(村)の新田百姓たちは、「野中新田」が一村となっていたことによる年貢勘定の手続き上の混乱を解消し、さらに、四つの組(村)に分かれたことを契機として「野中新田」村役人の不正を糺すなど、諸問題を徐々に解消していった。

図1-36 円成院境内の間数を示した絵図
享保11年11月「(円成院境内間数改絵図書付)」(史料集12、p.90)