検地帳に記載された名請人について詳しくみていこう。与右衛門組の名請人は七七名、このうち屋敷持は五一名である(表1-23)。最も所持地が多いのは九郎兵衛で一一町余、つぎが円成院で一〇町余であった。全体では一町以上を所持する層が半数以上を占めている。また、名請人のなかには田無村の百姓などもいる。最も特徴的であるのは、「円成院支配」と肩書きのある、泉宝院以下の宗教者の名が七名みられることで、このうち屋敷持ちは四名である。前述した享保七年(一七二二)一二月一日の証文で、百姓仲間が円成院に、円成院支配の辻堂庵の取り立ては思い通りにしてかまわない、とした約束がそのままのかたちで現れているといえよう。この時点で、円成院は開発場において自らの宗教的な影響力を保つことに成功しているようにみえる。なお、明治八年(一八七五)に作成された野帳でも、円成院は引き続き一一町余の土地を所持しており、与右衛門組のなかでの円成院の影響力は、近世を通じて安定的なものであったことが考えられよう。
表1-23 野中新田与右衛門組の階層構成 |
面積(町) | 人数 | うち屋敷持 |
11町~ | 1 | 1 |
10町~ | 1 | 0 |
9町~ | 0 | 0 |
8町~ | 0 | 0 |
7町~ | 1 | 0 |
6町~ | 1 | 1 |
5町~ | 1 | 1 |
4町~ | 4 | 3 |
3町~ | 1 | 1 |
2町~ | 17 | 16 |
1町~ | 19 | 13 |
1町以下~ | 31 | 15 |
合計 | 77 | 51 |
元文元年12月「武蔵国多摩郡野中新田御検地御水帳写」(円成院文書)より作成。 |
表1-24 円成院関係宗教者 |
名前 | 町.反.畝.歩 | 屋敷持 |
円成院 | 10.7.0.21 | |
泉宝院 | 1.7.8.18 | ○ |
柏禅坊 | 1.7.2.21 | ○ |
玄要坊 | 0.5.6.27 | ○ |
因順坊 | 0.4.6.21 | |
東林坊 | 0.4.0.27 | |
龍蔵院 | 0.3.2.15 | ○ |
洞界坊 | 0.0.8.21 | |
合計 | 16.0.7.21 | |
元文元年12月「武蔵国多摩郡野中新田御検地御水帳写」(円成院文書)より作成。 |
一方、善左衛門組の名請人は五一名で、このうち屋敷持は四五名である。名請人のほとんどが開発場を居住地とする百姓であったといえる。このうち、最も所持地が多いのは喜兵衛であり、その面積は一〇町余である。なお、名請人には「明石屋喜兵衛」という名もみられる。また、名主となった善左衛門は第五番目で五町余の所持となっている。名請人五一名のうち、一町歩台の土地所持者が最も多い割合を占め、一六名である。なお善左衛門組にも、延命寺のほか、龍蔵院、閑翁庵という二名の宗教者の名がみられるのであるが、彼らは屋敷持ではなく、所持地もわずかであった。
表1-25 野中新田善左衛門組の階層構成 |
面積(町) | 人数 | うち屋敷持 |
10町~ | 1 | 1 |
9町~ | 1 | 1 |
8町~ | 0 | 0 |
7町~ | 1 | 1 |
6町~ | 0 | 0 |
5町~ | 3 | 3 |
4町~ | 3 | 3 |
3町~ | 4 | 4 |
2町~ | 11 | 10 |
1町~ | 16 | 16 |
1町未満~1反以上 | 10 | 6 |
1反未満 | 1 | 0 |
合計 | 51 | 45 |
元文元年12月「武蔵国多摩郡野中新田検地帳」(市役所引継文書)より作成。 |
なお、検地の案内人を勤めたのは与右衛門組が七名、善左衛門組が一一名であった。彼らはそれぞれ所持地付近の案内を担当したとみられる。