享保二一年(元文元年・一七三六)、善左衛門は出入(でいり)によって吟味を受けたのち、名主役を召し上げられ、牢舎(ろうしゃ)を言い渡された。元文検地が実施された直後のことであったのだろう。牢舎の理由は組頭喜兵衛・同儀兵衛・百姓平助の年貢不納の出入にかかわるものであった。その際、善左衛門は自身が所持していた証文や帳簿を与右衛門組の名主与右衛門に預けている(第二章第九節)。善左衛門自身は一二月には赦免となったが、善左衛門組の百姓は善左衛門の名主帰役を願い、元文二年四月に代官上坂役所へ願書を提出した。ところがこの願いは聞き入れられなかった。百姓たちは、一〇年後の延享二年(一七四五)にも、善左衛門らの帰役を願っている。善左衛門が名主役を勤められなかった間、与右衛門ほか複数の百姓が、与右衛門・善左衛門両組の名主を兼ねていた。しかし百姓たちは、善左衛門に名主を勤めて欲しいという思いが強かったのであろう。善左衛門家の当主が代替わりしたのちの寛延二年(一七四九)、善左衛門はようやく帰役を果たしたのである。