成立後の野中新田を概観するには、文政一三年(天保元年・一八三〇)年完成の『新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)』の記述にたよらざるをえない。『新編武蔵風土記稿』は、野中新田与右衛門組と善左衛門組をあわせて「北野中新田」と記している。「北野中新田」は東西二〇町余、南北二二町余で、農業の合間に男は薪をきり、女は蚕を育てて木綿などを織ることで生業を助け、このあたりはみなこのようであるという。村内はすべて平地で畑となっており、土性は黒野土であった。
高札場(こうさつば)は二か所で、村の中央、青梅街道の左右にあるとされている。善左衛門組のうち「本通り」と呼ばれる地域、おそらくは名主善左衛門の居宅前にあったということになろう。