与右衛門組・善左衛門組・六左衛門組の三つに分かれた野中新田は、それぞれが村請制の単位であり、またそれぞれに村役人を置いていた。しかし、完全に分離独立していたわけではなく、あくまでも「野中新田」というくくりは存在し続けていた。そのため、野中新田を一つの「村」と考える場合、北野中新田と南野中新田で二つの「村」として考える場合、さらには三つの組をそのまま三つの「村」として考える場合など、近世の史料でもさまざまに記されている。
そもそも、「野中新田」の名称は、開発人の中心であった野中善左衛門の名前を付けたものといわれている。しかし前述の『新編武蔵風土記稿』「南野中新田」(野中新田六左衛門組)の項には、野中善左衛門については全く記されず、武蔵野新田の中ほどにあるため、すなわち、武蔵「野」の「中」にあるために「野中新田」とされた、という説を記している。隣村の鈴木新田については、開発人利左衛門が鈴木を称していたことから新田の名とした、と書かれているのとは対照的である。南野中新田の項を前に記しているためか、続く北野中新田の項では、郡中に野中新田があるためにこちらが北を付けた、としているほどである。『新編武蔵風土記稿』完成の頃、文化・文政期(一八〇四~三〇)の南野中新田では、すでに野中善左衛門とのかかわりが薄くなっていたということも考えられよう。なお、幕末期の六左衛門組名主が使用した印の印文には、「南野中新田」という文字が彫られていることも、この組のあり方を考えるには興味深い(第二章第九節)。
一方で、幕府が天保五年(一八三四)に調査を実施し、完成した、天保郷帳(てんぽうごうちょう)や天保国絵図(てんぽうのくにえず)には、「野中新田」として、三組を合計した村高一一四二石余が記されている。
また、「北野中新田」の善左衛門組と与右衛門組の関係を示す史料がある。天保一二年正月、与右衛門組の百姓が善左衛門組の百姓のもとへ、年始の挨拶に行ったことから起こった事件の際に、正月朔日は村の百姓が年始の挨拶で、各家に立ち寄る「しきたり」があることが述べられている(小川利雄家文書)。百姓相互のレベルであったにせよ、与右衛門組と善左衛門組、組をこえたつながりが存在していたのであろう。
また幕末期の事例として、安政四年(一八五七)七月には、与右衛門組・善左衛門組・六左衛門組の村役人、すなわち野中新田三組の役人の連名で、代官江川太郎左衛門役所へ、代官の役宅そのほかの普請金の献金をさせて欲しいと願い出た史料もある。