善左衛門組の「堀野中」

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善左衛門組のうち、玉川上水の南側に位置する「堀野中(ほりのなか)」は、喜兵衛(喜平)新田(きへえしんでん)とも呼ばれていた。その名が示すように、組頭喜兵衛がまとめていた地域である。
 享保二一年(元文元年・一七三六)、善左衛門組の絵図・帳簿の作成方法について、喜兵衛と名主善左衛門とで意見の相違が発生した。その内容は以下の通りであった(史料集一二、九五頁)。元文検地の実施にあたり、村では「地引小前帳」を仕立てるように指示を受けた。「南組」(喜兵衛組)の分は喜兵衛と百姓が立ち会って勘定をし、帳面と絵図を仕立てたうえ、善左衛門方へ持参した。しかし、善左衛門は絵図と帳面を二通にすることはできないと言い出したため、喜兵衛にとっては迷惑な話になったという。善左衛門は自ら仕立てた北側の帳面と別にしたくなかったのであろうか。急ぎの御用でもあるだろうから代官の指示を仰ぎたいと喜兵衛は願っている。これに対して代官上坂役所からの回答は、絵図は継印をして、帳面は番号順に合帳とすれば問題はないので、早く提出するように、というものであった。村のなかで争論になり、御用に差し支えることになれば問題である、としている。新田成立後まもない時期、一つの組でも離れた地域にあった両者の間では、帳簿作成の細かな方法などは決めておらず、堀野中をまとめていた喜兵衛としては、不満もあったのだろう。