野中新田と江戸

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野中新田の開発にあたっては、上谷保村の百姓と共に江戸の町人仲間も開発人として名を連ねていた。町人仲間は新田開発ののち、野中新田に居住していたが、その後も江戸との繋がりを示す、土地の売買をめぐるいくつかの史料が残されている。
 宝暦四年(一七五四)四月、江戸小伝馬上町(こでんまかみちょう)(現中央区)の明石屋喜兵衛が、所持地四町三反余を五〇両で清徳寺へ売り渡した。明石屋喜兵衛はこの土地に家守(やもり)を置いて年貢や諸役を勤めさせ、野中新田には居住していなかったのである。喜兵衛は経営が成り立たなくなったことを理由として、土地を売り渡したのであった。この土地は、安永五年(一七七六)一二月、神田小泉町(現千代田区)の上州屋藤兵衛から野中新田二名の百姓へ譲られている。また安永三年九月には、江戸小日向(こびなた)(現文京区)の小尾弥左衛門が、諸賄いに差し詰まったために一〇両を借用し、所持地を野中新田七右衛門持地に書き入れることになっている。
 このほか宝暦五年四月、江戸大久保新田(現新宿区)の仁右衛門が、勝手が悪いとの理由で移住をしないまま明家となっており、このほかに村へ移住してくる百姓もいないため、土地屋敷を売り渡すことになった。仁右衛門はこの土地の譲り渡しを、善左衛門から提案されたようである。善左衛門としては、江戸に住む人物が新田内に土地を持ったまま、実際には居住しない状態をよしとしていなかったのである。
 野中新田の開発の経緯を考えれば、開発当初の野中新田のなかには、江戸町人の所持地となっていた場所がいたる所に存在していたのであろう。しかし善左衛門は彼らに、江戸に居住したまま村内の土地を所持するのではなく、村に居住することを望んでいたのである。新田開発にあたって巨額の出資をした開発人である善左衛門自身も上総国からの入村百姓という出自であり、村の存立のためには、あくまでも村の成員として村に「参加」する百姓を、望んでいたのではないだろうか。