大堅和尚の遺偈

171 ~ 172 / 868ページ
本項の最後に、野中新田開発のきっかけをつくった大堅の遺偈(ゆいげ)を紹介しよう(図1-37)。「遺偈」とは、おもに禅僧が末期に臨んで門弟や後世にのこした言葉である。

図1-37 大堅の遺偈(円成院所蔵)

 大堅は延享元年(一七四四)五月三日に入寂(にゅうじゃく)した。死を目前にした大堅がのこしたのがこの遺偈である。その内容は、臨済宗開祖義玄禅師の語録『臨済録』(鎮州臨済慧照禅師語録)「行録」にある、義玄と弟子三聖との問答を引用したもので、大堅自身を三聖に置き換えたものとされる。このうち、最も重要と考えられているのが、末語の「遺豁驢邊」の部分である。大堅は『臨済録』に「遺瞎驢邊」とある語を、同音の言葉に置き換えた。「瞎驢(かつろ)」とは盲目の驢馬(ろば)であり、また、ひどく愚かなことのたとえとされる。この部分を大堅は同音で「豁驢(かつろ)」と書した。「豁(かつ)」は「ひらける」とも読み、広々とひらけているさまをいう語である。黄檗宗勢拡大のために新田開発を発起、尽力した大堅六七歳、死の直前、悟道(ごどう)の境地がひらけたという思いだったといわれる。