大岱村の當麻家と新田開発

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武蔵国入間郡大岱村(いるまぐんおんたむら)(現東村山市)を本村として、大岱村の南東に地続きで開発されたのが大沼田新田である(図1-38)。大岱村もまた、近世の早い段階にひらかれた村であった。承応四年(明暦元年・一六五五)の野火止用水(のびどめようすい)の完成を契機として、元禄年間(一六八八~一七〇四)までに開発され、村高は一九七石余、家数は近世後期には七〇軒ほどの村であった。

図1-38 大沼田新田と廻り田新田の位置関係
『東村山市史』1通史編上巻p.627の図をもとに作成。

 大岱村の名主を勤めたのが當麻弥左衛門家である。家伝によれば、當麻家は小田原の北条氏家臣の系譜を持ち、天正一八年(一五九〇)の北条氏の滅亡によって、相模国高座郡當麻村(現神奈川県相模原市)から大岱村に来村し、當麻を名乗ったという。大岱村の草分百姓(くさわけひゃくしょう)のうちの一軒だったとみられる。その後、享保期(一七一六~三六)以降に大岱村の名主を勤め、新田開発に従事したのであった。
 さて、享保七年(一七二二)七月、日本橋に新田開発の高札が掲げられ、幕府が新田開発政策を打ち出した。そして、享保九年五月に武蔵野新田が一斉に割り渡しを受けた際、大岱村には一七町歩が割り渡された。これが大沼田新田成立のはじまりと考えられる。なお、これより前の享保六年に、弥左衛門が幕府に開発の願書を提出し、同九年にこれが許可されたものとも伝えられているが、これに関する具体的な史料はなく詳細は不明である。
 ところで、幕府による新田開発の方針は、すべての村に受け入れられたわけではなかった。とくに武蔵野の秣場(まぐさば)を飼料や肥料の採取地として利用してきた村々にとっては、これらの確保を脅かすものとも考えられていた。享保八年五月二二日、多摩郡と入間郡のうちの二八か村が、幕府の新田開発政策に反対し、江戸町奉行番所へ強訴(ごうそ)に及んでいる。大岱村もこの秣場出入(まぐさばでいり)に参加した村であった。しかしこの訴えは、幕府に聞き入れられることはなかった。そして新田開発に反対していた大岱村は結局、享保九年五月に周辺の村々と共に、開発場を割り渡されている。開発場の確保に意義を見出したのであろうか。その後は弥左衛門が中心となって、新田開発を進めていった。