近隣村々からの開発場買い集め

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さて、大岱村が一七町歩の割り渡しを受けた享保九年(一七二四)、弥左衛門は勝楽寺村(しょうらくじむら)(現埼玉県所沢市)の割渡地(わりわたしち)二三町七反歩を、勝楽寺村名主伊兵衛・十郎右衛門から譲り渡された。五月二三日のことである。土地の譲り渡しに際して作成された証文によると、勝楽寺村は幕府からこの土地を割り渡されたが、勝楽寺村からは遠いこと、これに対して大岱村とは地続きであるという理由もあって、弥左衛門へ譲り渡す、と記されている(図1-39)。六月五日、弥左衛門はこの土地の代金一七両二分を、伊兵衛・十郎右衛門へ支払った。大岱村と地続きの地が渡されたとあるから、これがそのまま大沼田新田の村域になったとすれば、大沼田新田の北西部(現在の小平霊園をふくむ一帯)にあたる。後述するように、この地は大岱村百姓の持添(もちぞえ)地になる地域である。なおこのとき、売り渡されたのは二三町七反歩とされていたが、元文検地では一四町歩と定められた。開発場の見取り段階では、土地面積を多めに計算されていた事情によるのだろう。

図1-39 弥左衛門への土地譲渡証文
享保9年5月「譲証文之事」(東村山市當麻勉家文書)

 勝楽寺村からの開発場売り渡しを契機として、弥左衛門はさらに周辺の村々に割り渡されていた土地も買い集めた。また弥左衛門は、土地を購入するだけではなく、享保一二年四月には後ヶ谷村(うしろがやとむら)(現東大和市)名主勘左衛門へ土地を売却するなど、近隣村と土地売買を行うことによって「新田場」を形成していったのである。
 ところで、勝楽寺村から割り渡し地を購入した際に作成された、享保九年五月二三日の証文には、「右芝地貴殿方へ相譲り申し候」、すなわち、芝地を貴殿(弥左衛門)へ譲るということ、また代官へは弥左衛門から願いを出した上で「其元御高に御入成らるべく候」、すなわち、弥左衛門の持高に入れることが記されている(『東村山市史』8、三八四頁)。これは弥左衛門が購入した土地を、弥左衛門自身の持高にするということであり、割渡地は弥左衛門個人へ売却されたものだったといえよう。その後も弥左衛門は土地を買い集め(表1-26①)、享保一六年四月にいたり、合計八七町余の土地を集積したのであった。
表1-26① 弥左衛門あて譲渡証文一覧
年月日差出人宛先買取売却備考(本文記載)
町.反.畝.歩町.反.畝.歩
享保9.5.23勝楽寺村名主伊兵衛外2名弥左衛門23.7.0.0「貴殿方江相譲」「其元御高ニ御入可被成」
享保11.5.26上谷保村名主孫市弥左衛門17.1.6.22「其村江売渡」
享保11.7.10堀口村名主杢左衛門外3名弥左衛門11.1.0.0「御役米未ノ年ゟ御上納可被成」「当午ノ年御役米之義ゟ其元御相談ニ可仕」
享保12.4.16大岱村名主弥左衛門勘左衛門7.1.9.18
享保12.4.16後谷村半十郎外1名弥左衛門19.0.1.18
享保12.4.17後谷村彦八郎弥左衛門3.0.8.12
享保12.4.22野口村
(町屋村分)
名主太右衛門外1名弥左衛門13.8.0.0「其元江相渡シ」「御役米当年ゟ御上納可被成」
享保
14.3
清水村名主佐助外2名弥左衛門4.8.1.0「御年貢直ニ其元ゟ御上納可被成」
享保16.4.7久米川村又兵衛外4名2.5.0.0「其元江譲リ渡シ」「其元ニ而御上納可被成」ほか
小計95.1.7.227.1.9.18
合計87.9.8.4