二人の新田開発人

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弥左衛門と同じ大岱村の半次郎も、開発場を買い集めていた。半次郎も當麻を名乗る家である。半次郎は享保一一年(一七二六)六月から享保一四年一二月にかけて、合計六町余の土地を購入している(表1-26②)。これらの土地についても、役米(やくまい)は「来る未の年よりは其元にて上納成らるべく候」すなわち、未年以降は其元(半次郎)が上納するものとされ、弥左衛門と同様に、半次郎個人への土地売却であったと考えられる(『東村山市史』8、三八五頁)。
表1-26② 半次郎あて譲渡証文一覧
年月日差出人宛先買取売却備考(本文記載)
町.反.畝.歩町.反.畝.歩
享保
11.6
上谷保村名主孫市半次郎2.1.9.10「其元ニ而上納可被成」
享保
14.9
勝楽寺村忠三郎外1名半次郎1.0.0.0
享保
14.9
野口村勘兵衛半次郎2.3.4.12「其方反別御入御年貢上納可被成」
享保14.12.21野口村勘兵衛半次郎1.1.9.6「御年貢諸役等之儀其方ゟ御上納可被成」
合計6.7.2.28
『東村山市史』8資料編近世2、pp.384-392の譲渡証文より作成。

 以上のように、弥左衛門と半次郎、二つの當麻家を中心に開発場が集められていった。買い集められた土地は、享保一四年の時点で一三二町九反一畝二歩となっていた。後述する元文検地によって確定した大沼田新田の面積は、一二三町九反五畝三歩であり、享保一四年段階で、「新田場」の地域や面積がおおよそ定まってきていることがわかる。すなわち、「大沼田新田」となる新田場は、弥左衞門と半次郎、二人の百姓が買い集めた土地によって形成されていったのである。