新田場の百姓

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弥左衛門と半次郎によって近隣村々から集められていった新田場であったが、彼らの買い集め以前、幕府による割り渡しの直後から、すでに居住していた百姓もいたようである。たとえば、享保一一年(一七二六)七月一〇日に、弥左衛門が堀口村(現埼玉県所沢市)から購入した土地には、すでに堀口村から来た二人の百姓が居住していた。弥左衛門への土地譲渡証文には、居住していた二人の百姓は、そのまま弥左衛門の「新田」百姓になることが記されている(『東村山市史』8、三八五頁)。二人の百姓からみれば、村が「かわって」しまったことになる。鈴木利左衛門から土地を買い請けた百姓が、鈴木新田になる前の一時期、野中新田の百姓とされることもあったなど(本節3)、開発初期の段階、新田村のあり方には流動性があったといえよう。