入村百姓の出身地

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すでに居住していた百姓がいた一方、新田場には近隣村々から順次百姓が入村してきた。鈴木新田などと同様、大沼田新田にも入村百姓の出身地を記した史料が残されている。代官伊奈半左衛門の命令によって、宝暦一一年(一七六一)九月に作成された「武蔵野新田出百姓之訳書上帳(むさしのしんでんでひゃくしょうのわけかきあげちょう)」である(史料集一二、一一五頁)。享保一一年(一七二六)に多摩郡野口村(現東村山市)から半三郎が入村したのをはじめとして、翌享保一二年には、入間郡堀口村から金衛門、高麗郡(こまぐん)仲井村(中居村、現埼玉県飯能市)から与衛門、多摩郡内堀村(後ヶ谷村・宅部村のうち、現東大和市)から伊左衛門が入村した。最も遠方の村からきたのは、享保一六年に入村した、足立郡方来村(宝来村、現埼玉県さいたま市)の武兵衛であった。
 出身村は、多摩郡と入間郡の村が中心であった(表1-27)。そのほかは高麗郡が三軒、足立郡が一軒である。また、後述する元文検地実施以前には、二六軒の入村があったことがわかる。この時点で大岱村と廻り田村から入村した百姓は六人ずつであった。廻り田村の百姓は当初、のちに廻り田新田となる新田場には入村しなかったが、一方で大沼田新田には入村していたのである。また、大岱村からの入村者は享保一四年が最初で、元文元年(一七三六)までの入村者は六人のみであった。大岱村の百姓からみれば、新田場は居住地から近接しており、あえて移住する必要がなかったということだろうか。新田成立当初は、大岱村から移住する意思を持った百姓はそれほど多くはなかったのであろう。土地を集積した弥左衛門、そして半次郎も当初は新田場に居住していなかった。半次郎の後継である伝兵衛が新田に入村したのは、寛保二年(一七四二)のことである。
表1-27 大沼田新田の入村者
入村年多摩郡入間郡高麗郡足立郡
享保11年(1726)11
享保12年(1727)1113
享保13年(1728)2114
享保14年(1729)134
享保15年(1730)22
享保16年(1731)2215
享保17年(1732)11
享保18年(1733)314
享保19年(1734)11
享保20年(1735)11
元文元年(1736)0
元文2年~宝暦6年(1737~1756)71118
18223144
*数値は入村者数(世帯数)。
*宝暦11年9月「武蔵野新田出百姓之訳書上帳」(史料集12、p.115)より作成。

 その後、宝暦六年までに、村の唯一の檀那寺である泉蔵院(せんぞういん)をふくめ四四軒が入村した。入村百姓の出身地で最も多いのは、大岱村の一三軒、続いて廻り田村の六軒、堀口村の三軒であった。そのほかの村からは一~二軒の百姓が入村している。
 さて、各地から集まってきた百姓であるが、なかには生活が立ちゆかず、村を出ていく者もいたようである。新田場への入村者が順次増えていったとはいえ、すべての百姓が定住できたわけではなかった。開発は決して順調なものばかりではなかったといえよう。
 
大沼田新田の入村者
図1-40 大沼田新田の入村者
*埼玉県・東京都の現在の地図に、近世の村の位置を示した。
*数値は入村者数(世帯数)。
*宝暦11年9月「武蔵野新田出百姓之訳書上帳」(史料集12、p.115)より作成。