大沼田新田の土地所持状況

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つぎに検地帳の名請人(なうけにん)の階層構成をみてみよう(表1-29)。検地帳に記載された百姓九〇名のうち、所持地の面積が九町余の百姓は二名、八町余が一名、六町余~三町余の百姓が五名となっている。また、一町余の百姓が二六名で、一町未満の層は四七名と半数以上を占めている。一方で、屋敷持三〇名のうち一九名が一町余の百姓であり、全体の三分の二を占めている。すなわち、新田場に居住していたのは、一町余の土地を持つ百姓が中心であったといえよう。
表1-29 大沼田新田の階層構成
面積(町)人数うち屋敷持
9町~21
8町~11
7町~00
6町~10
5町~10
4町~11
3町~22
2町~95
1町~2619
1町未満471
合計9030
元文元年12月「武蔵国多摩郡大沼田新田検地帳」(當麻家文書)より作成。

表1-30 大沼田新田の階層構成(内訳)
面積(町)①持添②街道うち屋敷持
9町~011
8町~021
7町~000
6町~010
5町~010
4町~011
3町~022
2町~053
1町9反~022
1町8反~042
1町7反~021
1町6反~011
1町5反~010
1町4反~042
1町3反~065
1町2反~055
1町1反~022
1町0反~021
9反021
8反000
7反220
6反020
5反100
4反400
3反920
2反1200
1反2500
1反未満500
合計585030
表1-29の内訳を、①と②それぞれの集計で示したもの。但し、①②双方を所持する名請人もいるため、①と②の合計は表1-29とは必ずしも一致しない。

 一町歩以上の土地を所持する百姓は四三名おり、このうち屋敷持は二九名である。この時点では屋敷を持たず入村していない百姓もいるが、四三名という数値は、のちの大沼田新田の家数にほぼ合致する。
 名請人のうち、開発人である弥左衛門の所持地は九町余、半次郎は六町余となっている。最も多く土地を所持しているのは十兵衛で、九町四反余である。この土地については、天保一〇年(一八三九)に「丸屋重兵衛」の請地として帳簿が作成されており(當麻家文書)、丸屋の名からも十兵衛は商人とも推定される。
 ところで、検地の案内を勤めたのは、弥左衛門・半次郎・兵左衛門・浅右衛門・八兵衛・武兵衛・宇左衛門の七名であった。このうち弥左衛門と半次郎は開発人で、兵左衛門・浅右衛門・八兵衛は持高に多寡はあるものの、検地帳にも名前がみられる百姓である。ところが、武兵衛と宇左衛門については検地帳に名がみられない。また、弥左衛門をふくめた七名全員が、この時点では屋敷地を持っておらず、新田場に居住していなかったようである。彼らはおそらく、大岱村の百姓だったのだろう。新田場の土地所持の有無を問わず、本村である大岱村百姓が検地の案内人を勤めていたのである。