大沼田新田には検地帳に先立ち作成された「武蔵国多摩郡大岱村新田検地野帳(けんちやちょう)」が残されており、これは四分冊の形式となっている(當麻家文書)。このうち一冊目と二冊目のそれぞれに一番から地番が付されている。一冊目が一番から八二番および番外まで、そして二~四冊目の三冊を通して一番から六五四番までである。すなわち、検地野帳は二つの系統で作成されたのであった。
検地野帳と地割絵図に記された地番、名請人を照合すると、北西部の細かく地割された地域が、検地野帳一冊目にあたることがわかる。これに対して二~四冊目の検地野帳はそのほかの地域、すなわち江戸街道沿いの地域など、村の主要部分を占める地域を記している。検地野帳の一冊目の記載を「①持添」とし、二~四冊目の記載を「②街道」として、二つに分けて示したものが表1-30および図1-41である。①は本村大岱村と接する地域、②は江戸街道沿いを中心とした地域で、①と②は、性格の異なる二つの地域として認識されていたことがよく示されている。
さらに詳しく検地野帳をみてみると、①の土地の地目には屋敷地が全くない。つまり屋敷は②にのみ存在する。屋敷持の百姓は、②に土地を持っている百姓によって占められているのである。また①の名請人は五八名、②は五〇名で、①②共に名前のある百姓は一八名である。ほぼ同時期の大岱村の史料によって、百姓の名前を比較すると、二五名が①と一致する。①の名請人は大岱村の百姓が中心だったため、大岱村と接する①部分には屋敷地は設けられなかったのだろう。①は大岱村の「持添新田」ともいえる部分である。そして表1-29における一町未満の層は①、すなわち大岱村に居住する百姓なのである。
これに対して②の地域は、名請人ごとに割り付けられた短冊型の地割の半数以上に屋敷地が設けられている。②の名請人は大岱村以外の村から移住した百姓を中心としていた。前述した宝暦一一年(一七六一)の「武蔵野新田出百姓之訳書上帳」によれば、検地帳が作成された元文元年(一七三六)までに、大岱村から入村した百姓は六名のみであった。新田場を集めた弥左衛門や半次郎も、まだ大岱村に居住したままである。大岱村以外の村から入村した百姓は、実際に新田場に居住していること、また②は街道に沿った地域であることなど、新田場が②を中心に形成されていったことが考えられる。弥左衛門らの入村についてはつぎに述べるが、彼らもこの街道沿いの地域に居住するのである。
大岱村の當麻家が主導して形成された大沼田新田は、本村大岱村の百姓の持添地すなわち「村請新田」としての性格が強い地域と、各地から入村した百姓が居住して、実質的に新たな村を形成した地域とに明確に分けられる。そして後者が、新田村たる「大沼田新田」の中心であったといえよう。