開発当初の大沼田新田は、土地を買い集めた大岱村の名主弥左衛門が新田の名主も兼帯していた。しかし、寛保二年(一七四二)一一月、新田百姓は代官川崎平右衛門の役所へ、名主を伝兵衛にして欲しいという願書を出した。願書の内容はつぎの通りであった。大沼田新田の名主は本村に居住しているため、我々新田百姓は御用や年貢上納などのたびに本村の名主弥左衛門方へ呼ばれている。新田場から弥左衛門方へは二〇~三〇町(約二~三キロメートル)もあり、日の短いときなどは一日時間が潰れてしまうし、人夫も費やし、農業にも差し支えてしまう。これが何年も続いており、百姓の困窮の原因にもなっている。そんな折、今年秋から名主弥左衛門の婿伝兵衛が新田場に引っ越して世話をしている。伝兵衛は組頭の忰でもあり、名主から言われた御用向があれば、いつも本村弥左衛門方へ呼ばれている。これでは御用向も二重であり、人夫も余計にかかって大変である。そこで柳窪村(現東久留米市)の名主伊右衛門に仲介してもらい、伝兵衛はとてもまじめな人柄であるから、新田場の名主役を伝兵衛に渡して欲しい、そうなれば百姓の勝手がよくなると弥左衛門へ伝えた。ところが弥左衛門は、ゆくゆくは自分の忰伝右衛門を新田へ住まわせるつもりであり、百姓たちは思い違いをしていると立腹し、一切承知しなかった。さらに伊右衛門に頼んで、伝右衛門が新田場に家を建てて引っ越すまでの間、伝兵衛に名主役を預けるのはどうか、と弥左衛門に言ったがこれも一切承知しなかった。なんとか当分の間だけでも伝兵衛に名主役を預けるよう指示して欲しい。以上の内容を、代官川崎平右衛門下役に願い出たのであった(史料集一八、一五一頁)。