同年一二月にも願書が作成された。一一月の願書には百姓一四名の連印があったが、この願書は百姓三二名の連印を揃えたもので、より強い内容が記されている。その内容は以下の通りであった。そもそも新田名主は、本村の半次郎(伝兵衛の父、半治郎とも記される)であり、元文検地の際に、小川村の名主方で作成した代官上坂安左衛門あての証文にも「本村名主弥左衛門・新田名主半次郎・百姓代金右衛門」で間違いないとの血判を据えた。弥左衛門は半次郎の伯父で、本村の名主で新田名主をも勤めているが、実際は半次郎が名主なのである。また半次郎の忰伝兵衛は昨年から組頭役を勤め、四年間世話をしてくれている。しかも、とにかくまじめな人柄で、本村を捨てて、今は新田場に家を建て、御用向はもちろん、百姓のくらしの世話までしてくれるので、百姓は大変助かっている。これまで伝兵衛は、御用のために少々の入用がかかったときも、村入用(むらにゅうよう)を一銭も百姓から出させたことはない。また前年、川崎平右衛門下役から、百姓四名が二〇両を受け取ったが、弥左衛門が礼金を要求し、金二分を出したところ足りないと立腹し、一両必要だというので差し出した。伝兵衛へも金二分を出したところ、伝兵衛はそんなつもりはないと返してきた。また、春の井戸入用として、弥左衛門は金一両二分を取ったが、伝兵衛が仕切っていたときは少しの経費も取っていない。経費を取らない理由は百姓のため、新田が存続するためということであろう。また昨年の大麦・小麦・肥やし代の貸し付けを弥左衛門が引き取ってしまったため、百姓の麦返納のための収納ができなかった。また年貢は弥左衛門一人が勘定しており、割付勘定目録などはこちらにも渡すべきであるが一向に見たことがない。名主役を譲らないのは、名主役に利益があると考えているからだろう(史料集一八、一五二頁)。以上のように、新田百姓たちは、伝兵衛が新田場のために、損得感情なく力を尽くしてくれていることを述べ、これに対して弥左衛門は村の金銭を取り込み、利益を見越して名主役を渡さないのだとしている。百姓たちは自分たちの要求を通すために、伝兵衛と弥左衛門の行為をことさら比較しているようでもある。伝兵衛が百姓のためを思いながら新田場の世話をしていると強調していることがわかる。