伝兵衛、名主代役となる

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この結果、寛保三年(一七四三)三月、伝右衛門が新田に引っ越すまでという条件で、伝兵衛が名主代役を勤めることになった。柳窪村の名主伊右衛門の仲介で関野陣屋に願い出たところ、できるだけ出入にはせず、内済するように指示があったのである。その後、鈴木新田利左衛門・柳窪村伊右衛門・久米川村(現東村山市)浅右衛門・田無村(現西東京市)半兵衛・野中新田定右衛門の扱いによって、つぎのように決着した(史料集一八、一五四頁)。
①伝兵衛は弥左衛門の婿であり、組頭である。新田場へ伝右衛門が引っ越すまでは伝兵衛が弥左衛門の代役を勤める。諸書類には「名主弥左衛門代組頭伝兵衛」と書く。
②新田場の御用は伝兵衛が勤める。年貢は伝兵衛が取り立て、弥左衛門方へ渡し、弥左衛門方から陣屋へ上納する。
③名主役料は伝兵衛が取り立て、弥左衛門へ渡す。役料は弥左衛門の了簡に任せること。
④新田場の触(ふれ)の定継給は伝兵衛が受け取る。伝兵衛は百姓五人組へしっかりと触継ぐように。
⑤当年中に伝右衛門が新田場へ家を建てて引っ越したら、名主代役を渡す。
⑥年貢割付状(ねんぐわりつけじょう)を受け取ったら出百姓に見せて写し置き、本紙は名主弥左衛門へ渡すこと。

 これにより、伝兵衛は組頭であることが確認されたが、同時に「名主代役」として新田場の実務を取り仕切ることになった。なお、伝右衛門が新田場にきた場合も、伝右衛門は「名主代役」であり、この時点では弥左衛門が名主であることが前提となっていたことがわかる。