寛保三年(一七四三)の取り決めによって、伝兵衛は「名主代役」と決まったが、寛保四年二月以降の史料の肩書きには「当名主伝兵衛」あるいは「名主伝兵衛」と記されている。すなわち弥左衛門と伝兵衛とで「相名主(あいなぬし)」を勤めていたのであろう。新田場を買い集めた開発人の家、弥左衛門家と伝兵衛家、親戚関係でもあった両家が、共に新田の名主役を勤めたのである。
その後、寛延三年(一七五〇)一一月には、伝右衛門と伝兵衛の二人が「相名主」として、隔年で御用を勤めることなどを約束した証文が作成された(史料集一八、一六三頁)。村高三二〇石余のうち伝右衛門は二〇石余、伝兵衛は一五石、合計三五石余については、両者が新田開発人であり、また名主役を勤めているという理由から、村入用と人馬役を除き、残りの二八五石でほかの百姓が村入用と人馬役を勤めることが記されている。また名主給については、一石につき永五文ずつを高掛り(たかががり)で百姓が納めることを決めている。開発人の伝右衛門(弥左衛門家)と伝兵衛の両家は、村の名主を勤めるべき家と考えられ、諸役を免除されるなど、ほかの百姓とは別格の存在であることがわかる。なお、明和六年(一七六九)正月にもほぼ同じ内容で、弥十郎(伝右衛門忰)と伝兵衛の相名主取り決めについての証文が作成された。