弥十郎の入村と村役人の固定化

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安永年間(一七七二~八一)、弥左衛門家の弥十郎が本村から新田に入村した。安永七年(一七七八)正月、大岱村の名主當麻家では弥十郎が隠居し、忰弥太郎が名主となっている。これを契機として弥十郎が入村したのであろう。弥十郎の入村は、新田の名主家としての入村でもあった。ここにおいて大沼田新田は、「本村」大岱村から行政的に「独立」し、一つの村として成立したともいえるだろう。
 一方の伝兵衛は、明和九年(安永元年・一七七二)一〇月まで名主を勤めていることが確認できるが、安永三年に死去したこともあり、以後、伝兵衛家が名主を勤めることはなかったようである。これ以後、伝兵衛家は大沼田新田の「年寄(としより)」家となった。新田開発後、五〇年以上をへて、弥左衛門家の弥十郎が入村したことを契機に、弥左衛門家は名主、伝兵衛家は年寄として村役人が固定した。なお、弥左衛門が入村する前は、組頭が設置されていたが、名主・年寄が定まった後は、組頭は設置されなくなり、これが大沼田新田の村政の特徴を示すものとなる。
 以後、大沼田新田では名主・年寄・百姓代の体制で村運営が行われた。百姓代が交替することはあったものの、寛政期(一七八九~一八〇一)になると村役人の家は固定化し、弥左衛門と伝兵衛、開発人の二家は共に村の代表としての地位を確固たるものにしていたのである。伝兵衛が年寄になってから設置されなくなった組頭が再び登場するのは幕末期、弘化三年(一八四六)のことであった(第二章第七節4)。