成立後の大沼田新田の概要を比較的詳細に記した、寛政一一年(一七九九)一一月「村中様子品々書上帳」から、村のすがたをみてみよう(史料集一、九九頁)。大沼田新田は江戸から七里(約二八キロメートル)の距離にあり、東西約一二町、南北約九町の広さである。村の地性は、武蔵野新田のほかの地性と違わず軽土であり、田は少なく、畑がちである。作物は五穀のほか、蕎麦・荏・胡麻・芋・粟・菜・大根・辛子などを作付けており、少々の面積ではあるが、田場では晩稲(おくて)、かさ餅、粳、畑方の種物としては、大麦は早稲(わせ)・中手(なかて)・青麦・白麦、小麦はあみた・穂そろえ、粟は赤餅、粳は黒粟、稗は鑓穂、荏は赤から、胡麻は黒胡麻を作付けしているとある。農業の合間には、男は江戸へ出て槙木を付け駄賃をえて、馬を持たない者は縄・沓(くつ)・草履を作り稼いでおり、女は薪を取っている。このほか、籠、桶屋、左官職人などもいた。また、年寄伝兵衛は水車や油絞・糠売・銭質小商い、名主弥左衛門は水車稼ぎをしているとある。また村内に行き交う鳥として、雁・雉子・鳩・雀・雲雀がみられ、このほか猪・鹿・ウサギなどがいることも記されている。
なお、文政四年(一八二一)六月に中村八太夫代官所へ提出した「村差出明細帳」によれば、最寄りの市場は大沼田新田から二里余(約八キロメートル)の距離にある入間郡所沢村(現埼玉県所沢市)で、毎月三日と八日に市が立てられていたとある。また、大沼田新田には高札場(こうさつば)はなく、地続きであることから、本村大岱村の高札場を利用していたとある(史料集一、一〇四頁)。
大沼田新田はほかの武蔵野新田と同様に、畑がちの村で、少しの田場があるとはいえ、年貢はすべて現金で納める「金納」だった。宝暦三年(一七五三)の「村鑑」などには「当村金納村に御座候」と記され、収穫物による現物納は基本的には行われていなかったことがわかる(史料集一、九〇頁)。