これまで述べてきたように、開発人の二家である名主弥左衛門家と年寄伝兵衛家は、公儀(幕府)などへの諸役の負担が免除されるなど、村役人を勤めるべき家として、ほかの百姓とは別格の存在であった。
大沼田新田の百姓が、弥左衛門と伝兵衛(半次郎)は村でも特別な存在であると考えていたことを如実に示す事件もあった。天明五年(一七八五)、金治郎家の門塀扉をめぐる出入で作成された証文には、「大沼田新田は享保一四年に本村に居住していた半治(次)郎と弥左衛門両人の開発により、出百姓に土地を割り渡したのち、公的に高入れされた」と記されている(当麻伝兵衛家文書)。金治郎は、名主と年寄とは血縁であるから、彼らと同様に「木戸」を建てることを相談していたという。しかし新たな建築は触によって禁じられており、村も凶作続きで困窮しているため、ぜいたくな建築である「門塀扉」は支障があると考えられていた。ところが金治郎が門塀扉を建てたために出入になった。金治郎は開発人の親族と同じような建築をしたいと考えていたのである。開発人は村にとって特別な存在であり、開発人の親族も特別である、との思いがあったのであろう。
弥左衛門家、伝兵衛家は共に商いを行う家でもあった。弥左衛門は文化七年(一八一〇)に代官伊奈助右衛門役所へ酒造稼ぎを願い出て、一七〇石の醸造から順次経営を広げ、最盛期には一〇七〇石までになった。八王子・青梅・五日市に三軒の支店を出すほど、手広く行っていたようである。そのため、多くの奉公人を抱えていた(第二章第四節)。伝兵衛も、水車や油絞・糠売・銭質小商いなどの商売を経営、さらに家屋を貸し渡し、店賃を取ることもしていた。相手は久米村や大岱村など近隣の村の者であるが、これも商いの一端であったのだろう。
弥左衛門と伝兵衛は、持高も村の多くを占めていた。伝兵衛は享和・文化年間(一八〇一~一八)には村高三〇二石余に対して七〇石余を所持、弥左衛門は一八石余であった。持高は時期と共に変化し、伝兵衛が持高を少なくする一方、弥左衛門は順次増やしており、奉公人が最大人数であった嘉永五年には、一〇七石余の持高となっていた。村高の三分の一を占めることになる(第三章第一節)。また、明治初期に作成された野帳からも、弥左衛門が村の土地の多くを所持していることがわかる。このとき、大岱村の持添地からはじまった地域(図1-41の①)のほとんどが弥左衛門の所持地となっていた。
大沼田新田に設置された二つの水車を所持していたのも弥左衛門と伝兵衛であった。また、村には唯一の檀那寺、泉蔵院(せんぞういん)があり、大沼田新田のすべての百姓が泉蔵院の檀家であったが、泉蔵院の引寺もまた、開発人である弥左衛門と伝兵衛の尽力によるものが大きかった(本節7)。