久米川新田はもともと、武蔵野新田開発以前は芝野で、作右衛門の願いによって開発を行い、享保一九年(一七三四)に代官上坂の検地を受けていた地であった。その後、作右衛門は、久米川村からは遠く勝手が悪いとの理由で土地の譲渡を願い、役所へ願書を出した。村でも支障はない旨、願書を差し出し、隣村の柳窪村・大岱村そして大沼田新田の村役人からも、支障はない旨の証文が提出された。この地は作右衛門一人が名請けしており、検地帳自体も一冊であったため、久米川村の百姓や親類にとっても、他村の百姓である伝兵衛へ譲り渡すことにそれほど支障はなかったのであろう。
翌宝暦一二年八月一日、伝兵衛は代官伊奈から土地譲渡の許可を受けた。土地と検地帳を渡され、年貢諸役は伝兵衛が納めることになった。ところが、年貢徴収を分けるのは容易ではないということになり、譲渡を見合わせていたようである。二つの村の年貢徴収の問題であるため、役所としては手続きしがたい問題と考えられたのだろうか。
そして五年後の明和四年(一七六七)五月、この地をめぐって出入が起こった。二年前の明和二年九月に、伝兵衛親半治郎の名前で質流地証文を作成し、この地を受け取って、役所から言われていた通り、年貢金を直納していた。願いが聞き入れられるまでは、久米川村名主へ納めることになっていたので、前年の年貢金を名主へ持っていったが、作右衛門方から挨拶がないので受け取れないと名主が言い、作右衛門へ持っていったところ、名主へ直納はできないと言って、年貢金を作右衛門が過分に受け取ったという。伝兵衛は、「作右衛門の態度は不埒であり、伝兵衛は年貢金を過分に取り立てられ、六年前の約束も破られた。伝兵衛方からは年貢金・高掛物などを上納し、高役も勤めているのであるから、年貢目録や検地帳も渡して欲しい。あるいは、質地金を作右衛門が返済して、土地はもと通りの所持とするように指示して欲しい」とした。伝兵衛は、金子貸借の関係から久米川新田を所持する約束をしただけで、久米川新田を所持したいと考えていたわけではなかった。この出入は翌六月に内済し、その結果、年貢割付を分けることはできないということで、石高五石余の分は久米川村と割付を一つにして、「同所武蔵野新田」の脇に「大沼田新田伝兵衛持」と書き入れることになった(当麻伝兵衛家文書)。年貢諸役は伝兵衛の直納とし、伝馬役(てんまやく)や鷹野御用などの村並入用は一年に銭四〇〇文を、久米川村名主へ一一月二五日までに差し出すことが決められたのである。
「久米川新田」はあくまでも久米川村の持添新田として存在していたのである。新田開発初期であればともかく、元文元年(一七三六)の一斉検地が行われた後でもあったから、久米川村の新田、という位置づけを替えることを役所ではよしとしなかったのであろう。一方、一つの新田村のように扱われているが、百姓が居住していたわけでもなく、新田が久米川村の百姓以外の所持になったことで、年貢諸役あるいは久米川村の百姓が負担するはずの、村役の問題を決める必要もあったことがわかる。そして、内済証文作成と同時に、出入の争点の一つであった享保一九年の検地帳が明和四年六月、伝兵衛に渡された。伝兵衛が新田検地帳を所持したことによって、名実共に久米川新田は伝兵衛が所持する新田になった。
久米川新田を描いた図によれば、北は「大沼田新田江戸道」にまたがり、南は「野中新田江戸道」まで、東は大沼田新田に接し、西は野中新田与右衛門組に接していることがわかる。また、土地は畑と立木のみで、民家はなく、伝兵衛の「持添地」であると記されている(当麻伝兵衛家文書、図1-42)。
図1-42 久米川新田絵図
天保14年閏9月「絵図面」(当麻伝兵衛家文書)
『当麻伝兵衛家文書目録』口絵より転載。
ところで、嘉永二年(一八四九)一〇月に、伝兵衛はこの地を野中新田勘右衛門に質流地として引き渡すことになった。前年の嘉永元年一二月の取り決めには、近来不幸が続いてしまったので勘右衛門方へ質流地とする旨が記されている。弘化四年(一八四七)一月に、伝兵衛家では水車小屋が全焼するという事件があり、このことが大きく関係していたかもしれない。伝兵衛は勘右衛門から八五両を受け取っていた。さらに嘉永三年一一月には、野中新田定右衛門と大沼田新田伝左衛門へ分地されたようである。しかし久米川新田はもともと一村という扱いで、年貢諸役等に支障があると困るとして、結局、伝兵衛のもとに戻された。明治初期の時点でも、久米川新田の持添人は伝兵衛であるという状態は変わらなかった(第二章第九節)。