享保七年(一七二二)、幕府より享保の新田開発の方針が示されると、享保八年六月、武蔵野の北側に位置する多摩郡一二か村・入間郡一六か村の計二八か村は、秣場(まぐさば)を失ってしまうのは難儀至極(なんぎしごく)だと、開発反対の訴訟を起こしている。反対の理由は、諸作物の肥料には芝草(秣)(しばくさ(まぐさ))を最も用いていること、武蔵野の秣場以外に、秣を刈り取る場所はないことであった。これらの村々にとって武蔵野は、「日々に入会(いりあい)芝草を刈り取り田畑の肥やしを拵(こしら)え、又は薪を拾い、或(あるい)は夫食(ふじき)の足合(たしあい)に粮草(なみくさ)をつみ」と、秣を刈り取って肥料にし、薪を拾い、食用の植物をえるなど生活に欠かせない場所であり、「武蔵野の影(かげ)を以って人馬の飢命(きめい)つなき渡世の元」と、武蔵野のおかげで人馬が生き長らえることができたとまで述べている(所沢市小峰家文書)。