廻り田村は、この反対運動に参加している村々の南端に位置し、開発予定地となる武蔵野と隣接しており、村内は開発賛成派(開発地割り渡し希望)と、反対派(開発地割り渡し不要)とに二分していた。享保九年(一七二四)に入ると、代官岩手藤左衛門信猶(いわてとうざえもんのぶなお)は、開発地の割り渡し希望の有無を、武蔵野附の村々に確認していたが、廻り田村では、富田領名主九兵衛(きゅうべえ)を中心とした村役人層が、いち早く開発地の割り渡しを望まない旨を届け出る一方、一部の小前百姓(こまえひゃくしょう)は「惣百姓連判(そうびゃくしょうれんぱん)」を以て、開発地の割り渡しを代官に申し出るよう、名主に訴えている(東村山市小町家文書)。岩手による武蔵野新田南部(小平市域等)の開発地割り渡しがあらかた終了した享保一〇年に入ると、両派の運動はさらに盛んになり、同年一〇月、賛成派は岩手にあてて、名主の心得違いで開発地の割り渡しを望まない旨を申し上げたが、惣百姓は割り渡しを望んでいて迷惑しており、小前百姓から代官に割り渡しを望む旨を追願した。しかし、すでに割り渡しも済んでいたため認められず、今後、北武蔵野で割り渡しをする際に改めて申し出るよう言われ、北武蔵野で開発地の割り渡しを願い出ている(東村山市小町家文書)。賛成派の訴願は、相給中川領名主の半次郎(はんじろう)と、相給富田領百姓代の太郎兵衛(たろべえ)を先頭に計一三名の廻り田村百姓から出され、また同月、あらためて、三六名から連印で嘆願書が出されている。一方反対派も同月、三三名から開発地の割り渡しを望まない旨の願書が出されており(東村山市小町家文書)、廻り田村は、支配の違いや階層をこえて、開発地の割り渡しをめぐってまさに二分されていたのである。
図1-43 「廻り田村村絵図」
(東村山ふるさと歴史館寄託小町家文書)