開発賛成派において中心的な動きをするのは、斉藤太郎兵衛である。以下、太郎兵衛の視点から、廻り田新田の開発の経緯をみてみたい。太郎兵衛の子の弥兵衛(やへえ)は、父から聞いた廻り田新田開発の経緯を「廻り田新田壱村定事(めぐりたしんでんいっそんさだめのこと)」という記録に残している(史料集一二、一二五頁)。この記録によると、享保一〇年(一七二五)にいたり、代官岩手が小川村名主宅を旅宿とし、武蔵野に隣接する村々に、開発地の割り渡しを望むかどうか、申し出を受けつけた。ところが、廻り田村富田領名主九兵衛と、当時の中川領名主又三郎(またさぶろう)は申し合わせて、開発地の下賜(かし)を望まない旨の書付を提出し、開発希望の村名から除名され、野口村から割り渡しがはじまっていったという。そのころ太郎兵衛は上州(じょうしゅう)(現群馬県)へ馬を買いにいっており、武蔵野に開発方役人が来て割り渡しをしていると聞いて、急ぎ帰ってきた。しかし、すでに両名主から開発地を望まない旨を申し出たと聞き、両名主に対し、それならば自分たちは独自に割り渡しを願うと了解を取り付け、小川村へ向かった。岩手はこの願いに対し立腹して取り合ってくれなかったが、訴願人が太郎兵衛であると聞き、「太郎兵衛なれハ」と話を聞き入れてくれたという。その理由は、以前に入間郡阿須山(いるまぐんあすやま)(現埼玉県入間市)で将軍の猪狩(ししがり)があり、太郎兵衛は谷保村(やほむら)(現国立市)の藤八(とうはち)(野中新田開発人、本章第一節4)とともに勢子大将(せこたいしょう)(動員された百姓たちからなる勢子=鳥獣(ちょうじゅう)を追い回す役を統括する立場)を勤めており、岩手も猪狩に同行していたことから知り合っていたという。斉藤家には、享保一一年(一七二六)一一月の「御犬捉飼御猪狩(おいぬとらえかいおんししが)り之節勢子人足差(のせつせこにんそくさ)し出(だ)し候村々石高(そうろうむらむらこくだか)」とする記録が残されている(斉藤家文書)。年代的にはこの岩手とのやりとりよりものちのものだが、太郎兵衛は幕府の鷹狩(たかが)りに際して勢子大将を勤めており、幕府関係者とも人脈を持っていたようだ。
図1-44 「廻り田新田壱村定事」
宝暦11年3月(史料集12、p.125)
南武蔵野の割り渡しはすでに終了しており間に合わなかったが、太郎兵衛はこの直談判により、これから所沢村(ところざわむら)(現埼玉県所沢市)を拠点に行われる北武蔵野の割り渡しでは開発地を下賜するので、測量のための棒杭(ぼうくい)などを用意するよう言われ、結果、入間郡入間川(いるまがわ)前(現埼玉県狭山市(さやまし))で、三八町の土地を割り渡されることとなる。こうして、廻り田村では、太郎兵衛の運動が効を奏し、開発地を下賜されることとなる。