しかし、せっかく獲得した開発地ではあるが、「凡道法(おおよそみちのり)四里余もこれ有(あ)り候得(そうらえ)ば、馬草(まぐさ)かり取にも其日(そのひ)には出来かね」と、廻り田村から一六キロメートル以上も離れ、秣(まぐさ)の刈り取りも日帰りでは不可能で、しかも途中に川を二度三度渡らなければならないなど、秣場としてはふさわしくない場所であった。そこで太郎兵衛は、かねてより親しい間柄であった入間川村(現埼玉県狭山市)の半兵衛(はんべえ)(綿貫半兵衛(わたぬきはんべえ)、入間川村の豪農)に、開発地を一二両二分一二匁で売却したという。実際に取り引きをした時期は不明だが、残された証文では、享保一四年(一七二九)一一月に、廻り田村名主九兵衛から岩手にあてて、廻り田村分の「北武蔵野御割地場所(きたむさしのおんわりちばしょ)」を入間川村へ譲渡したことが記録されている(東村山市小町家文書)。