北武蔵野の開発地を手放す一方、本来の目的である、廻り田村の秣場の確保のため、太郎兵衛はその後も奔走する。太郎兵衛とともに勢子大将を勤めたという谷保村の矢沢藤八は、享保の武蔵野新田開発でも最大規模の開発である、野中新田の開発発起人の一人でもあった(本章第二節4)。藤八は野中新田に三八町歩もの土地を割り渡されるが、鍬下年季(くわしたねんき)の段階でも一町につき野銭(のせん)二六文ずつを納める必要があり、結果、二三両余の年貢の不納に陥り、入牢(にゅうろう)を命じられた。そこで太郎兵衛は、享保一〇年一二月二六日(一七二五)に牢に見舞いに行き、藤八の滞納分を立て替え、藤八を出牢(しゅつろう)させる。この時、太郎兵衛を説得したのは、「江戸宿山田屋庄兵衛(えどじゅくやまだやしょうべえ)」である。庄兵衛は、藤八と太郎兵衛は兄弟分の間柄であり、太郎兵衛なら金銭を調達できるだろうと説得し、太郎兵衛は方々で借金をして滞納分の二三両余を調達したという。こうして藤八は滞納分の年貢を太郎兵衛に立て替えてもらい、牢から出ることができた。しかし、藤八には、他に太郎兵衛に立て替えてもらった借金を弁済する方法がなかったため、藤八が割り渡された野中新田の三八町の土地を太郎兵衛に譲渡したという。こうして太郎兵衛は三八町の土地をえることになるが、新田場なので出百姓が一人は必要ということで、太郎兵衛の父の忠兵衛(ちゅうべえ)が出百姓となり、廻り田新田として高入れを受けることとなったという。
以上が太郎兵衛の視点からみた廻り田新田の開発の経緯であるが、この経緯について、残された証文(公文書)からも確認しておきたい。まず享保一一年四月に、玉川上水北側の開発場所三八町を、廻り田村名主九兵衛が、野中新田譲り主与右衛門(よえもん)・証人藤八郎から買い取っている(東村山市小町家文書)。譲渡の理由は「去己年(さるみどし)御役米(やくまい)御未進御座候(みしんござそうろう)」と、藤八が年貢の未進に陥り、開発仲間の与右衛門が引き取っていた土地を、廻り田村が買い取ったことになる。また享保一二年四月には、廻り田村の才兵衛(さいべえ)が、廻り田村がさきに買い取った玉川上水北側の土地に隣接する八町の土地を、四両で買い取っている(東村山市小町家文書)。この譲渡の理由も、「去午年(さるうまどし)御役米指詰(やくまいさしつめ)」というものであり、広大な土地を割り渡された野中新田の開発人達が年貢(開発場役米)の不納に陥り、北武蔵野の村々に開発地を譲渡しているようすがわかる。こうして、廻り田新田を構成する四六町の土地が、野中新田から廻り田村に譲渡された。この間の経緯について、後述する証文では、忠兵衛が「去午年に貴殿両人の名前にて野中新田より芝地三八町歩買い請け」と、享保一一年に名主九兵衛の名前で、野中新田から芝地(しばち)三八町歩を買い請けたと述べている(東村山市小町家文書)。したがって、証文には名主の九兵衛の名前が記されているが、実際は、「廻り田新田壱村定事」にあるように、忠兵衛・太郎兵衛親子が、開発賛成派を代表して方々に運動し、金策したうえで、北武蔵野の土地を岩手より割り渡され、それを入間川村(いるまがわむら)に譲渡する一方、野中新田の玉川上水北側の土地(もと藤八の割り渡し地)を、廻り田村の秣場=廻り田新田として獲得したのである。
廻り田新田は廻り田村の秣場獲得を目的として取得されたため、この四六町の土地は、廻り田村の希望者三八人に九反ずつ割り渡され、金主となった忠兵衛は、これとは別に二町四反の土地を手に入れることになる。