図1-45 「取替証文之事(写)」
天保14年6月(東村山ふるさと歴史館寄託小町家文書)
開発場をめぐっては、その後も、忠兵衛・太郎兵衛親子が開発場で「我儘(わがまま)なる不届(ふとど)き」をしている、野中新田名主与右衛門と結託して年貢をめぐる不正をしているなどと訴えられており、開発への賛成・反対をめぐる村内の対立に端を発する問題は、新田場の経営をめぐって、続いていたようだ。
こうして、当初開発地の分与を願い出ない廻り田村のなかで、太郎兵衛を中心とする一派が、さまざまなつてを頼って開発地の獲得に成功し、獲得した開発場が不便なため譲渡する一方、野中新田の一部を買い取って、廻り田新田が成立する。この間、金銭をめぐる問題が頻発するが、その際、「江戸宿山田屋庄兵衛」が扱人として登場する。この庄兵衛は、のちに廻り田新田の村役人として名を連ねる山田庄兵衛と同一人物と考えてよいだろう。出百姓(でびゃくしょう)の記録からは、山田庄兵衛は入間郡久米村(くめむら)(現埼玉県所沢市)出身とあるが、庄兵衛については「百姓宿」とする史料もあり、久米村の百姓で、江戸にも店を持っていた庄兵衛が、廻り田新田の開発を金銭的に援助したと考えておきたい。