年貢不納問題

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廻り田新田にも、鍬下年季の明けた享保一三年(一七二八)より、年貢が課される。新田開発方役人野村時右衛門(のむらときえもん)・小林平六(こばやしへいろく)の支配時代の享保一三・一四年は、反当たり二〇文、計九貫四七六文が割り付けられる。忠兵衛は計三町三反の土地を割り渡されているが、土地を割り渡されて以降、直ちに年貢不納に陥ったようであり、享保一四年(一七二九)に、四年間の年貢が不納であると、九兵衛より訴えられている(東村山市小町家文書)。この訴訟は、「取替証文之事」によると、野中新田名主与右衛門と江戸宿山田屋庄兵衛とが扱人となり、三町三反のうち三反を除き、三町分の年貢を、翌享保一五年(一七三〇)から弁済していくことで内済となる。享保一六年末には、享保一三年から一五年までの年貢滞納分が一挙に皆済となっており、この内済を反映したものだと思われる。

図1-45 「取替証文之事(写)」
天保14年6月(東村山ふるさと歴史館寄託小町家文書)

 開発場をめぐっては、その後も、忠兵衛・太郎兵衛親子が開発場で「我儘(わがまま)なる不届(ふとど)き」をしている、野中新田名主与右衛門と結託して年貢をめぐる不正をしているなどと訴えられており、開発への賛成・反対をめぐる村内の対立に端を発する問題は、新田場の経営をめぐって、続いていたようだ。
 こうして、当初開発地の分与を願い出ない廻り田村のなかで、太郎兵衛を中心とする一派が、さまざまなつてを頼って開発地の獲得に成功し、獲得した開発場が不便なため譲渡する一方、野中新田の一部を買い取って、廻り田新田が成立する。この間、金銭をめぐる問題が頻発するが、その際、「江戸宿山田屋庄兵衛」が扱人として登場する。この庄兵衛は、のちに廻り田新田の村役人として名を連ねる山田庄兵衛と同一人物と考えてよいだろう。出百姓(でびゃくしょう)の記録からは、山田庄兵衛は入間郡久米村(くめむら)(現埼玉県所沢市)出身とあるが、庄兵衛については「百姓宿」とする史料もあり、久米村の百姓で、江戸にも店を持っていた庄兵衛が、廻り田新田の開発を金銭的に援助したと考えておきたい。