新田への移住

206 ~ 206 / 868ページ
藤八から土地を購入して以降、斉藤忠兵衛・太郎兵衛親子は新田場で何らかの活動をしていたと思われるが、元文検地段階に至っても、屋敷はいまだなく、廻り田新田に居住する者は皆無だった。しかし、廻り田新田のこのような状態は、新田場を秣場としてではなく耕作地として開発させ、人びとを居住させることによって生産力の向上を目指していた幕府や大岡配下の役人にとっては、望ましい状態ではなかった。元文検地以降、廻り田新田は、支配代官上坂安左衛門政形(うえさかやすざえもんまさかた)配下の新田世話役(しんでんせわやく)、川崎平右衛門定孝(かわさきへいえもんさだたか)の支配を受ける事になるが、川崎は廻り田新田の土地所持者に対し、出百姓となるよう命じたという。斉藤家が廻り田新田に居住するようになった年代は不明だが、斉藤家に続けて寛保元年(一七四一)に廻り田新田に移住してきたのは、久米村の山田庄兵衛と、北野村(きたのむら)の大舘平左衛門(おおだちへいざえもん)である。山田庄兵衛は、開発期に斉藤忠兵衛をサポートした山田屋庄兵衛と同一人物と考えられる。庄兵衛はこの移住に際し太郎兵衛から土地を買い請けており、また後年に付け足されたと思われるただし書きには「隣家庄兵衛此方(このかた)の地分(ちわけ)に候間、二人目の家柄と定置(さだめおき)候、末世に庄兵衛方にて此方長百姓(おとなびゃくしょう)などと申すことも有るまじく」と、両家が開発に際し親密な間柄にあり、とくに、検地帳において忠兵衛・太郎兵衛家が割り付けられた土地の一部を、庄兵衛が出百姓となるに際して譲渡したことから、庄兵衛家は廻り田新田において「二人目の家柄」とされる一方、あくまで二人目であり、一人目は斉藤家であることが、開発から出百姓にいたる歴史的経緯によって確認されているのである(斉藤家文書)。