廻り田新田の出百姓について記された最初の史料である「武蔵野領(むさしのりょう)之内(うち)廻り田新田出百姓(でびゃくしょう)」によると、寛保三年九月(一七四三)の時点での出百姓は(斉藤)太郎兵衛、(山田)庄兵衛、(大舘)平左衛門の三家である(東村山市小町家文書)。この時、太郎兵衛夫婦は六一歳と五一歳であるが、庄兵衛夫婦は三六歳と三一歳、平左衛門夫婦は二六歳と二一歳と、若い夫婦が村の開発の中心である。人数は僅か一〇人、男四人と女六人からなる小さな村が、ようやく誕生したのである。しかし、この史料には本村兼帯の「代々草訳名主(くさわけなぬし)」として九兵衛の名が記され、「御水帳(みずちょう)ならびに御割附目録其外古証拠書物(わりつけもくろくそのほかふるきしょうこしょもつ)残らず取り添え九兵衛方にて所持罷り(しょじまかり)在り」と、検地帳(けんちちょう)や年貢割付目録(ねんぐわりつけもくろく)など、開発や村の成り立ちにかかわる記録を、九兵衛が所持していることが記されており、表向きには、廻り田村と名主の九兵衛が廻り田新田の中心となっている。また、寛保三年(一七四三)より出百姓があったとはいえ、廻り田新田の土地の大部分は、廻り田村の百姓の持地であり、廻り田新田の耕作地は、廻り田村の持ち主の持添分として出百姓が耕作していた。このころの廻り田新田は、小さな村としてスタートを切る一方、名主や生産状況など、廻り田村の強い従属下にあったのである。